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相手の顔色が気になる...交流分析が明かす「自分がない人」が見てきた親の態度

加藤諦三(早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)

2023年05月30日 公開 2023年07月26日 更新

 

他者との比較で自分を知る人

「あなたであるな」というメッセージには、もう一つ含まれているものがある。それは「あなたは実際の自分に気がついてはいけない」という禁止令である。

私の幼い頃の家族旅行の例で説明しよう。子どもの頃、私は父と海に行くのは嫌だった。しかし父が期待していたのは、私が海に父と行きたいと望むことである。

実際の私は父と海に行きたくないのだが、そのように望むことを期待されていた。父親から「あなたであってはならない」と、メッセージを受けていたのである。

それは同時に「あなたは、海に父親と行きたくないという本当の気持ちに気がついてはいけない」という禁止令であった。実際の自分に気がついてはいけない。これは大人になって、他人とのコミュニケーションをする際に、大変な障害となる。人とふれ合えなくなるからだ。

さらにこれにはもう一つある。「父は海なんて行きたくないのだけれども、息子の私が行きたいので仕方なく行ってくれるのだ」と解釈しなければいけないのだ。こう解釈すれば、恩着せがましい父を満足させることができる。

これはつまり、実際の相手に気がついてはいけないということでもある。実際の父は、子どもとべったりして家族一点張り、ほかに行くところがない。しかも一人ではいられない人だった。

要するに、実際の自分の気持ちにも気がついてはいけないし、実際の相手の気持ちにも気がついてはいけないということである。このような経験をしながら成長した人が、他人と心をふれ合えるような大人になるはずがない。

まさに他人とコミュニケーションできない、他者不在の自我状態である。私は青年時代に悩んだ。その原因はいくつかあるが、その一つに父から受けたこのような強制的なメッセージがあったのは間違いない。

「自分がない人」の特徴は、心が他人に支配されるということである。他人のことが気になって仕方ないのである。だからいつも心が安定しないで、かき乱されている。自分がない人の心は、休息を知らない。

自分がない人は、他人との比較でしか自分をとらえられないので、他人のことが気になって仕方がない。

「あの人にこう思われるのが悔しい」とか、「あの人がいい暮らしをするのが許せない」「あの人だけが甘い汁を吸うのがしゃくにさわる」「あの人が得をするのでは私の気がすまない」などと、他人との関係でいつも心が乱される。

つまり、自分の生活がないのである。これではどんなに偉くなっても、その人生は虚でしかない。いつも一生懸命やらなければ、と自分を叱咤し、馬鹿にされてはならないと張りつめている。

だがそのわりには、心のどこかでいつも退屈している。一生懸命生きながら、その人生は虚でしかないとは何という悲劇であろうか。

 

心を縛る「親の要求」

スイスの哲学者であるヒルティーは、自分に荷が勝ちすぎている役割を引き受けると、そのために不名誉を招くばかりではなく、本来その人が果たし得たであろう役割をも果たせなくなると述べている。

自分がない人こそ、荷が勝ちすぎる役割を引き受けてしまうということは、興味深い事実である。

「あるべき自分」が先行するために、どうしても実際の自分には荷が勝ちすぎる役割を引き受けてしまう。そして挫折する。その結果がうつ病なのである。実際、うつ病になる人は子どもの頃、従順な「よい子」であったケースが多いのである。

幼い頃、人は誰でも周囲の人の好意を欲しがる。その好意を得るためにはどのようにしたらよいか、子どもはそれぞれ学ぶ。その中で従順な子どもは、愛を得る方法とは、お行儀よく振舞う、邪魔しない、自己主張しない、騒がないということだと学習したのだと臨床心理学者のウェインバーグは言う。

愛を得なければ自分の存在には何も意味がないと子どもは感じる。そのために従順にしているのである。従順な子どもは、自分を無視されたり否定されたりすることを恐れているのである。

心を病む人というのは、子どもの頃「よい子」であった人が多い。手のかからない、反抗しない子は、未成熟な親や支配的な親、自己中心的な親にとっては、素直なよい子に思える。

そんな親は、自分の心の葛藤に心を奪われているから、子の心を理解する能力を持っていない。そのため、この子は手のかからない子なのではなく、子ども自ら手をかけられないでいるのだ、ということに気がつかない。

子どもからすれば、親の要求を一方的にかなえるだけの存在なのである。子どもは自分の親への要求をすべて放棄している。

本当は親に対して、自分の顔を見てほしい、自分の話を聞いてほしい、自分を可愛いと言ってほしい、自分と遊んでいることが一番嬉しいと言ってほしい、自分を抱いてほしい、もっと自分を求めてほしい、とさまざまな要求がある。

しかし子どもはそれらの要求をすべて放棄しているのである。そして素直なよい子は逆に、一方的に親の要求をかなえることに神経を使っている。自分の存在を確認してほしいという切実な願いを放棄して、親の要求をかなえることにすべてのエネルギーを使う。

これらの子どもの要求は、人間にとって本質的なものであるから、この時期に実現されないからといって消えてなくなるものではない。一生の間、無意識の領域から生涯にわたって、その子を支配し続ける。

結婚してもその要求は心の中で実現を求め、配偶者に歪んだ形で突き付けられることになる。いつも不機嫌で配偶者に絡んだり、束縛したり、嫉妬したりするのは、小さい頃実現されなかった要求を、さまざまな形で結婚生活の中で実現しようとするのである。

【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

 

著者紹介

加藤諦三(かとう・たいぞう)

早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員

1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

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