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うんざりする一本道の先に...サザンも歌った「伝説のバー」が見た“横浜の今昔”

佐野亨(フリーライター)

2023年01月26日 公開 2024年12月16日 更新

 

うんざりするほど長い一本道


村雨橋

〈波止場は、どこでも遠い。波止場にいく道は、たいてい、ニンゲンのにおいのしない、広い、一本道だが、これが、みんなうんざりするほど長い。

横浜・北波止場(ノース・ピア)の入口も、国電の東神奈川の駅からまっすぐ一本道できたところだけど、ぼくは、毎日、うんざりしながら、この道をあるいた〉(田中小実昌『北波止場の酔っ払い』)

ここで書かれている「横浜・北波止場(ノース・ピア)の入口」とは神奈川二丁目交差点付近、首都高速の真下に架かる村雨橋を指す。

1972年(昭和47年)8月4日には、ベトナム戦争に反対する市民らが炎天下のなか、ここで座り込みを敢行し、米軍の戦車出動を阻止した。この村雨橋闘争は、同年に相模原の在日米陸軍相模総合補給廠西門前で起きた市民闘争とあわせて「戦車闘争」とよばれる。

村雨橋から星野橋へ到る道沿いには、かつて港湾労働者のための簡易宿泊所がならび、最近まで生活保護受給者向けの入居施設として利用されていたが、この本の取材をはじめたタイミングで跡形もなく取り壊された。

田中小実昌が「うんざりするほど長い」と書いた通りをあるいて瑞穂埠頭へ向かう。千鳥橋を過ぎ、高島線の線路をこえると、右手に三井倉庫が所有する古い倉庫群があらわれる。

このあたりまでくると、道の先にある瑞穂橋が目視できる。橋の先はノースドックの敷地となり、米軍の統治下に置かれている。

戦車闘争以後もノースドックは着々と動きを見せていた。たとえば、1995年(平成7年)の沖縄少女暴行事件をきっかけとする在沖米軍基地返還の日米合意を受けて静岡の東富士演習場や山梨の北富士演習場、大分の日出生台演習場など本土5ヵ所に実弾演習場が移設されてからは、演習につかう榴弾砲がノースドック経由で持ち込まれている。

 

行きどまりのバー

瑞穂橋の入口には、一般人の立入りを禁止する旨が記された看板が立っている。橋のたもとには、サザンオールスターズの「思い出のスター・ダスト」で歌われ、「あぶない刑事」など横浜でロケされた数々のドラマや映画にも登場するバー、スターダストとポールスターがある。

「1950年代のはじめには、村雨橋をこえて右側に5、6軒の外人バーがならんでいました。うちは1954年(昭和29年)から営業をはじめましたが、ベトナム戦争の終結と同時にパタッと客足が途絶え、当時5、6軒あったバーもつぎつぎとつぶれていったんです。もともとここは準工業地帯で、民家はひとつもないからね。

うちも全然お客が来ない時期が何年もつづきましたが、70年代の後半に雑誌に書かれたものを読んだひとたちが、口づてにこの店の存在を広めていって、方々からお客が来るようになった。

昔は若い人も多かったけれど、いまは中年過ぎのサラリーマンが多いかな。古いひとだと、親子二代で通っているひともいる。ここで知り合って結婚して、その子どもがまたここへ飲みに来たりね」(二代目マスター・林彰男さん)

開店当時からほとんど変わっていない店内には、横浜の移り変わりのなかで、出会い、別れ、生まれ、消えていったひとたちの足あとがしみついている。

店に置かれた1950年代製のジュークボックスもメンテナンスの甲斐あって、しっかり現役だ。コインを入れて、プラターズの「煙が目にしみる」を流してみる。

「造船所があった頃は、みなとみらいのほうなんて真っ暗でなにも見えなかった。いまはそこのコットンハーバーにしても、こうこうと明るくなっちゃって。店のなかは変わっていないけれど、外の風景はまるで変わったね」

全国各地から昔なじみの客が足をはこぶ一方で、コットンハーバー地区にくらす新住民との交流はほとんどないという。

2021年3月、日米合同委員会での合意により、基地内の鉄道レール、およびゲート外の土地約一千四百平方メートルの返還が実現した。ノースドックの土地の一部返還は、瑞穂橋と港湾道路が返還された2009年(平成21年)3月以来のことだったが、いずれにせよ基地は稼働をつづけている。

 

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