1000年の夢を破り、世界に登場した『ザ・テイル・オヴ・ゲンジ』
1924年(大正13)、ウェイリーはジョージ・アレン・エンド・アンウィン社に、『源氏物語』の英訳本を出したいという話を持ち込んだ。アンウィン社は、一流の学者や作家の著作を刊行することで知られる名門出版社である。
当時ウェイリーは、すでに数十首の漢詩や和歌、能楽の英訳を発表して高い評価を受けていた。とはいえ、社主のスタンレー・アンウィン(1884~1968)は、まだ世に知られていない11世紀初期の日本女性が書いた文学作品の英訳本を出すことに、少しとまどっていた。
「『源氏物語』という名は聞いたことがありませんが、それは本当に傑作なのですか?」
とアンウィンは尋ねた。
「そう、かつて世界で書かれた2冊か3冊の大小説の一冊ですね」
ウェイリーは表情も変えず静かにいい切ったので、アンウィンは一瞬我が耳を疑い、驚いて「えっ!」と思わず声が出てしまった。
「それでは、どうしてもやらないといけませんね」
目が利くアンウィンは、ウェイリーが持ってきた『源氏物語』の訳稿を読んで驚き、それがすぐに喜びにかわった。
「ウェイリーさん、なんてすばらしいものを持ってきてくれたんですか。これはすごい」
第一巻が出たのは、翌1925年(大正14)。装丁は濃紺の布表紙に金文字で『源氏物語』、背文字には同じく金文字で『ザ・テイル・オヴ・ゲンジ』というタイトルが入っている。
日本古典文学が世界に進出した歴史的快挙である。忽然と東方から登場した紫式部の文才は、欧米の文壇で衝撃をもって迎え入れられ、各新聞・雑誌上のおびただしい書評で激賞と喝采を浴びる。
そして、これほど洗練された文明が非西洋文明にも1000年も前に存在したことに、欧米の人々は驚嘆することになる。第一巻初版が出た翌年には、ウェイリー訳のスウェーデン、フランス、オランダ、イタリア語訳が続々と刊行された。
ウェイリーの翻訳は単なる逐語訳ではなく、原文に忠実でありながらも複雑で曖昧な文脈をよく読みこなして、味を出しながら新しい作品世界をつくり出している。
彼の文体は美しく、原文に新しい光を浴びせて、一つの創作的な英文学作品につくり上げているのも、読者を魅了する力になっているのである。ウェイリー訳は今も色あせることなく、英文学の古典としての地位を占めている。まさに不朽の名作といえるだろう。
「『あなたでしたの、王子さま』と彼女はいった。『ずいぶん長くお待ちになりましたのね』」
これは、ウェイリーが『ザ・テイル・オヴ・ゲンジ』第一巻初版本の扉に載せたシャルル・ペロー(1628~1703)の童話『眠れる森の美女』の中の一節である。
ウェイリーに発見されるまで、『源氏物語』を知る人は欧米で皆無であった。1000年眠り続けたその目を覚まさせ、『源氏物語』の真価を蘇らせ、世界第一級の文学として全世界に知らしめたのが、ウェイリーという"王子さま"だったのである。