元々は入浴嫌いだったという高橋一喜さん。しかし「運命の温泉」との出会いから人生が一変。なんと温泉めぐりのために、念願かなって就職した出版社を退職するまでに。「やりたいことは今やる」を貫いた高橋さんの人生について話を聞きました。
※本稿は、高橋一喜著『こだわるから、とらわれない—温泉が教えてくれた心地いい生き方—』(ICE[インプレス])より、内容を一部抜粋・編集したものです。
「温泉めぐり」のために退職
「日本全国をまわって、温泉の道を究めたいので会社を辞めます」
そう上司に宣言して、退職届を提出した。2008年、31歳のときだ。上司にとっては想定外の理由だったようで、しばし言葉を失っていた。
当時、私は出版社で書籍編集の仕事に従事していた。
編集の仕事は刺激的で、充実していた。ふつうに生活していたら会えないようなビジネスパーソンや専門家に取材したり、原稿を執筆してもらったりする。自分の企画が書籍や雑誌の形になり、書店に並ぶというプロセスが楽しくてたまらなかった。決して仕事がイヤで会社を辞めたわけではない。温泉に逃げたつもりもない。
もともと学生時代からマスメディアでの仕事に憧れていた。就活はテレビ局や新聞社、出版社ばかり受けていた。山一證券が破綻し、就職氷河期といわれた時代。ただでさえ企業の採用人数が絞られているのに、応募する企業はとことん厳選した。働きたいと思える企業しか受けなかった。その結果、全戦全敗。全滅だった。
当時メールはまだそれほど普及していなかったので、お祈りメールではなく、お祈り郵便だった。最後のほうは、こちらがお祈りしながら封を開けていた。
まだ夏頃だったので、志望する業界を変えて仕切り直すという選択肢もあったが、すでに心が折れていた。結局、親に泣きついて大学を留年した。
就職浪人として挑んだ2年目は、無謀なことに、さらに志望先を絞った。出版業界だけに狙いを定めたのだ。就職活動をする中で、やりたいことがはっきりしてきたこともあるが、意地になっていた面もあったと思う。就職浪人までしたのだから、自分のやりたい仕事に就けなければ納得できなかったのだろう。
しかし、前年と同様、苦戦が続いた。もともと出版業界で新卒を採用する会社は限られる。門戸が狭いうえに、当時はやたらと学生の人気が高かった。斜陽産業といわれる今となっては隔世の感があるが。
就職活動2年目の12月。卒業が3カ月後に迫っていた。いよいよ年貢の納め時かと諦めかけた頃、採用してくれたのがビジネス書をおもに刊行する中堅出版社だった。あとで上司からは「草野球チームのピッチャーができるやつを探していたから野球部出身のキミを採用した」と打ち明けられたが、とにかく希望する業界にギリギリ滑り込むことができた。
今振り返ると、これほどまでに何かに執着していたのは、就職活動が最後だった。ここで踏ん張るかどうかが人生の岐路になると、頭の片隅で感じていたのかもしれない。
こうして苦しみつつも入社した会社だ。仕事へのこだわりもあった。
それでもなお、会社を辞める決断をしたのは、あふれ出る温泉への情熱を抑えられなかったからである。温泉への情熱が仕事への情熱を上回ったというわけだ。
温泉との出会いが人生を変えた
そもそも、なぜ温泉の魅力にとりつかれることになったのか。
きっかけは、20代の頃、当時つきあっていた恋人といっしょに訪ねた南紀白浜温泉(和歌山県)の旅行だ。当時の私は、温泉にまったく興味がなかった。風呂嫌いで、毎日の入浴が億劫でならなかった。旅行にまで行って、わざわざ温泉に入ることに価値を見出せなかった。南紀白浜に行ったのは、恋人が「アドベンチャーワールドのパンダが見たい」と言ったからだ。
だが、その旅でたまたま立ち寄った温泉で人生が変わった。
観光スポットとしても人気の「崎の湯」だ。波打ち際にあるダイナミックな岩づくりの露天風呂で、万葉の時代の天皇も入浴したという歴史が残る名湯だ。
ろくに温泉に入ったことのなかった私がまず衝撃を受けたのが、大海原に面した開放的なロケーションである。波しぶきがかかりそうなほどの波打ち際で、海上を行き交う船から丸見えになるほどだ。
「こんなにすごい温泉があるんだ!」
崎の湯に感動した私が次に向かったのは、ガイドブックに載っていた川湯温泉(和歌山県)だ。なんと、川を掘ると温泉が湧き出し、露天風呂を自作できるという。旅の予定を変更して翌日には紀伊半島の山の中へと車を走らせた。
そこで待っていたのは、河原につくられた湯船。川底から湧き出した熱湯を川の水とブレンドさせて適温にするという、これまた興味深い温泉だった。
こうして、私は温泉にのめり込んでいく。調べれば調べるほど、全国各地にさまざまな温泉が湧いていることを知り、週末の休みのたびに温泉地を訪ねるように。最初は彼女や友人といっしょだったが、そのうち彼女を置いてきぼりにして、単独行動をするようになった(もちろん彼女にフラれることになった)。
最初は絶景の露天風呂などロケーションのよい温泉を中心にまわっていたが、その過程で、源泉そのものに関心が移っていく。天地の恵みである温泉は、ひとつとして同じものはなく、それぞれが個性をもっていることを知る。また、温泉地ごとに歴史があり、長く育んできた文化もある。
ということは、全国の温泉に入らなければ、温泉のことを知ったことにはならないのではないか。そう考えるようになり、温泉めぐりに拍車がかかった。
だが、週末の温泉めぐりだけでは、「温泉を知りたい」という欲求を満たせなかった。日本には約3000の温泉地がある。今のペースでは、これらすべてをまわるのは無理だ。どうすればいいか。
最初に浮かんだのは、老後に温泉めぐりをするというプランだ。キャンピングカーで全国津々浦々をまわるのも楽しいかもしれない。
だが、当時20代後半の自分にとって、定年後はあまりに遠すぎる。30年以上経ってもなお、温泉が好きかどうかわからない。仮に温泉への情熱が尽きなかったとしても、定年後に温泉めぐりなどできるだろうか。
独身ならなんとかなりそうだが、結婚して家族ができれば、大反対に遭うかもしれない。人生は何があるかわからないから、すでにこの世にいないかもしれない。
今、温泉に入りまくりたいという欲望はどうする? その思いを抑えたまま何十年も待つことなど現実的ではない。
結局、やりたいことがあるなら、今やるのがベストという結論に至ったのである。やりたいという感情は生ものだ。野菜や魚と同じように、時間が経てばおいしい旬を逃してしまう。