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生き方

他人の評価に依存してしまう...「承認欲求が強い人」に不足しているものとは?

池田由芽(心理カウンセラー)

2024年09月05日 公開

他人の評価に依存してしまう...「承認欲求が強い人」に不足しているものとは?

「認めてほしい!」
「わかってほしい!」

このような承認欲求が強い人にあなたはどんな印象を抱きますか?

かまってちゃん? 自己顕示欲が強そう? 少し厄介?

共通して言えるのは、承認欲求はしばしば邪魔者にされがちな欲求ということ。多くの人は自分の中にある承認欲求をひた隠そうとするし、なんなら手放そうとさえします。

しかし、承認欲求というのは私たちが当たり前に持っている欲求のひとつで、人格の土台となる大切なものなのです。ここでは自分でも気づきにくい承認欲求にどうすれば気づき、うまくつきあえるのか、大人気心理カウンセラーが解説します。

※本稿は、池田由芽著『メンタル"ヤバめ"をやめられる本』(大和出版)の一部を再編集したものです。

 

満たされないからほしくなる、満たされればほしくなくなる

あんまり強いと人間関係のトラブルにもなるもの、それが承認欲求。承認欲求が満たされていない状態、欲求が強すぎて承認の腹ペコ状態、私はこれを「愛の飢餓」と呼んでいます。

自分の中に承認がない、自分で自分を認められない。だから誰か、私を認めてくれ! 愛してくれ!

外側に求めすぎてしまうのです。そして愛の飢餓になってしまっていると、とても悲しい現実が訪れます。

実際に「すごいね」「よくがんばっているね」「好きだよ」と承認の言葉を言われても「なんかうさんくさい!」「本当はそんなこと思っていないくせに!」「どうせお世辞でしょ?」とほしかった言葉をうまく受け取れなかったこと、ありませんか?

なぜこんなことが起きてしまうのかというと、ご自身に「自己承認」がないからです。

 

人は自分で見知っているものしか受け取れない

例えば、あなたがコップというものを知らなかったとしましょう。そこに友達が来て「コップを取って」と言われたとしても、どれがコップなのかわからないから「これ? これ?」と手当たり次第にアイテムを確認するかもしれないですよね。この例と同じで、自分で自分を認める感覚が育っていないと、人から承認をもらっても、これが承認なのかわからず「なんかちがう!」となってしまうのですね。

これを受け取り下手と言います。承認欲求の正しい扱い方は、自分の中にある承認欲求を否定せず自分で自分を認めてあげる必要がある、ということ。

自分の中にある承認欲求を最初から否定してしまっては、自分で自分を認めてあげるという次のステップにいけませんよね。だからこそ、「承認欲求は無理して手放す必要はない」のです。

自分の中の愛の器がたっぷりと承認で満たされれば愛の飢餓は終わります。するとどうなるか想像できますか?

そもそも自分の中で承認欲求が自給自足できているので、外側に過剰に求めなくなるのです。承認欲求が自分の中にあることを否定したり、無理に手放そうとするともっとお腹がすく。でも承認欲求があることを認めて満たせば、「認めてくれ~!」と外側に求める必要がなくなります。

手放しって、手放そうとするほどできなくて、満たすと勝手に手放されるものなのですね。

 

自己承認がうまくなるために、これだけやって!

でも、自分を認めるって、どうやったらいいのかわからない!

そんな方のために、私がかつて師としていたカウンセラーの先生に聞いた言葉をプレゼントします。当時の私は自己肯定感のカケラもないような人間でした。そこで先生に尋ねたんです。

「自分を認めるってどういうことですか?」

その時、先生に言われた言葉を今でも大切にしています。そして、これほどわかりやすい「自分を認める」はないのではないかと思っています。先生はこう言いました。

自分を認めるってね。ただ、そこに「在ること」を許すということなんだよ。花が咲いていたら、こう言おう。ああ、咲いているんだね。それでいいよって。

ただそこに「在る」。それでいい。ただ「在る」ことを許す。これが自分を認めるということです。あなたの感情はあなたのものです。そして、感情はただ湧き出してるだけ。あなたの感情はすべて尊重されるべきなのだ、ということです。

それなのに人は、「こんなこと感じたらいけない」とか「私ってば心が汚い」とか、ついつい自分をジャッジしてしまう。ジャッジとは裁くという意味ですね。同じ自分の中で正義側が悪側を「ひどいやつ認定」しているのです。

あなたの正義が裁こうとしている悪は本当に悪なのか? ということを思い出してみたいものです。

 

時には人のせいにしていい、他責もウェルカム

すべての感情を許すことが自己承認だとした時、究極「人のせいにしたっていいよ」ってことです。

とは言っても、多くの人は子ども時代に親から「人のせいにするな」と教わってきたから、抵抗感がありますよね。何かトラブルがあった時には、つい「自分のせい」にしてしまいます。

「仕事でミスしちゃった。みんなに迷惑かけちゃった。私のせいだ!」

そうして、ひとりになってひとり反省会をしている人も多いのではないでしょうか。でも、これまで身の回りで起こったトラブルを思い出して冷静に考えてみてください。

トラブルは本当にすべてあなたのせいでしたか?

仕事のミスがあった時に、一部はあなたが見直せる点はあったかもしれない。でも、システム上わかりにくかった、という問題もあるかもしれないですよね。

だとしたら、「ここは私が注意不足でしたが、ちょっとシステム上わかりにくかったかもしれません」ということ自体、何も悪いことではないですよね。あなたのミスがきっかけで、システムエラーを見直すことができるのであれば、後から仕事をするみんなのためにもなっていきます。

こんな例もあります。

陰でコソコソ悪口を言う人がいたとします。あなたはその人に不快な思いをしています。陰でコソコソ悪口を言われる。これはあなたのせいでしょうか?

いいえ、相手の言葉は相手の責任です。もし、これもあなたのせいなのだとしたら、「ねぇ、あの人の悪口すごくてみんな迷惑しているから止めてもらえないかな? だって彼女の悪口ってあなたのせいなんでしょう?」なんてことになりかねません。

「そんな理不尽なことありますか! こっちだって迷惑しているのに!」って、思わず叫びたくなりますよね。

世の中には責任の領域というものがあります。あなたの責任の領域はあなたが直接関われる範囲まで。そして、同じように相手にも相手の責任の領域があります。相手の不機嫌も悪口も、不快な態度も相手の責任。時に人のせいにしていくことで相手の責任を相手にお返しすることができるのです。

「人のせい」という言葉が苦手な人は「相手の責任」という言葉に置き換えて考えてみてくださいね。

 

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