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東京駅の謎…「東京の玄関」はなぜ現在地に造られたのか

小野田滋(鉄道総合技術研究所)

2012年09月28日 公開 2022年02月22日 更新

東京駅の謎…「東京の玄関」はなぜ現在地に造られたのか


(写真:米里耕治)

「東京の玄関」として立派な駅舎を構える東京駅。明治16年(1883)に建設計画がなされ、日本が近代国家の仲間入りを目指していた。

でな、なぜ現在の地に建設されたのか。それには2つの理由があると鉄道総合技術研究所の小野田滋氏は語る。

※本稿は『歴史街道』2012年10月号より一部抜粋・編集したものです。

 

鉄道インフラの整備と東京駅

2012年10月1日、約5年間にわたって行なわれていた保存・復原工事が終わり、東京駅は建設当時の壮麓な姿を取り戻します。

東京駅は申し分の無い“東京の玄関”ですが、なぜここに造ったのか、あるいはどのような経緯で建設されたのかといった点については、これまであまり語られていませんでした。

しかし、建設時の歴史的背景を知ることで、今、保存・復原工事を行なう意義が理解でき、竣工時の姿に戻った東京駅の魅力を、より身近に感じられることと思います。ここではまず、東京駅が建設された経緯について解説してみましょう。

東京駅の建設が計画されたのは、明治16年(1883)頃に遡ります。当時の日本は近代国家の仲間入りをめざし、東京を「一国の首都」として恥ずかしくない都市に発展させようと躍起になっていました。中でも新たな交通手段となる鉄道の普及は、重視されていました。

それでは、東京駅はなぜ現在の位置に造られたのでしょうか。大きく、2つの理由があります。

1つは、上野駅と新橋駅を鉄道で結ぼうと計画したからです。東京の鉄道は明治5年(1872)に新橋-横浜間、明治16年に上野-熊谷間が開通しましたが、新橋と上野は現在の山手線(当時は品川線)を経由して遠回りで繋がっていました。

しかし新橋と上野をより短い距離で結ばなければ、東北方面と東海道方面の物資を容易に流通させることができず、経済の発展にとっても足枷となります。新橋と上野の間はすでに市街化していたので、踏切の無い高架鉄道として建設することとしました。

そして、2つ目に、その中間に「中央停車場」を設けることが提案されたのです。ちなみに、開業前は「中央停車場」と呼ばれていましたが、開業の際に「東京」という駅名が与えられました。

当時の繁華街は、江戸時代から続く日本橋や銀座でしたが、東京駅はそこからやや離れて、西側の敷地に建設されることとなりました。

 

近代日本の都市計画のなかで

東京駅の計画は、近代日本における最初の都市計画である「市区改正」によって進められました。東京を一国の首都に相応しい姿とするためには、道路や鉄道、港湾、上下水道など、様々なインフラを計画的に整備する体制が求められました。

市区改正は内務省が主導していましたが、その一方で外務省も臨時建築局を創設して官庁集中計画を推進し、ドイツ人技師を招聘して現在の霞ヶ関の官庁街の原型が形成されました。

しかし、この計画は、推進していた外務卿・井上馨の失脚で頓挫し、内務省の市区改正へ吸収されてしまいました。

市区改正委員会では、明治22年(1889)に最初の市区改正計画を上申し、高架鉄道で新橋と上野を結び、中央停車場を設けることが正式に告示されました。

そして、中央停車場は、当時の官有地で、広大な敷地を容易に確保することのできた丸の内に建設されることとなります。

東京駅は、しばしば「皇室の玄関」として語られますが、当時はまだ正面を丸の内側に向けるか、八重洲側に向けるか、厳密に定まっていませんでした。

しかし、丸の内側の官有地が三菱財閥に払い下げられ、ここにビジネスセンターを建設する構想が進められ、加えて、「貨物の積卸しが皇居側では見苦しいのではないか」という意見もあり、結果的に丸の内側に建設されることとなりました。

また、日清戦争や、日露戦争の勝利を背景として、欧米諸国に負けない中央停車場にしたいという意識も根強く、結果、破格の規模の駅として東京駅が誕生することとなるのです。(談)

 

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