荒川と隅田川の「水害の歴史」が証明した“浅草の安全性”
2019年10月17日 公開 2024年12月16日 更新
未曾有の巨大台風、線状降水帯による豪雨…近年、自然災害の影響が激しさを増すなか、全国各地が河川を氾濫し、治水の重要性が改めて浮き彫りになった。流域に大きな人口を抱える荒川や隅田川のリアルタイム水位にも大きな注目が集まるようになった。
国土交通省で河川局長などを歴任した竹村公太郎氏は、著書『日本史の謎は「地形」で解ける』にて、江戸幕府が長年にわたり苦心しながらも荒川と隅田川の治水事業を進め、現代の東京の治水につながったことに触れている。ここではその一節を紹介する。
※本稿は竹村公太郎著『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。
江戸繁栄の鍵は荒川の治水
1590年、徳川家康は豊臣秀吉の命令で江戸に転封となった。家康は荒涼とした寒村の江戸に入った。当時、江戸を囲む関東は平野と言うより大湿地帯であった。利根川、荒川、入間川の全てが江戸湾に注ぎ込み、大雨が降れば何日も何日も冠水したままの土地であった。
家康はこの大湿地帯を江戸幕府の繁栄の土地にすべく立ち向かった。
その筆頭が利根川の流れを江戸湾から銚子に向ける、いわゆる利根川東遷の工事であった。1594年の会の川締切り工事を手始めに、赤堀川の開削、江戸川の開削などの河川工事が着手され、利根川を東へ東へと誘導する作戦が現実化していった。
利根川の制御に続いて実施すべきは荒川の制御であった。
荒川は現在の隅田川であり、江戸市中では大川とも呼ばれていた。この荒川は洪水で江戸を苦しめる反面、舟運で江戸と周辺農村を結ぶ大切な川であった。そのため、いくら洪水で暴れる荒っぽい川でも利根川のように流路を遠くへ移動させるわけにはいかなかった。
荒川、つまり隅田川の洪水をいかに制御するかが江戸繁栄の鍵となった。なお、ここでは荒川を隅田川と呼ぶことにする。
困難の連続だった隅田川の治水工事
隅田川の洪水をいかに制御するかが、徳川幕府の大きな課題となった。
現代のように大型機械がない時代、隅田川の治水工事は至難の業であった。事実、首都・東京を守る抜本的な治水工事は300年後の昭和の代までもちこされることとなった。
近代日本が総力を挙げて建設した荒川放水路(現在の荒川)は1911年に始まり、1930年にやっと完成した。この放水路建設は我が国初の大型機械化工事であり、近代土木史の中でその偉業は燦然(さんぜん)と輝いている。
それに対して、江戸時代の人馬に頼る隅田川の治水工事は困難の連続であった。それは何度も大水が江戸を襲っていることからも分かる。
隅田川を制御した最終的な堤防の姿は残っているが、そこへたどり着くまでの試行錯誤の歴史的記述は手に入っていない。
今となっては、江戸の人々が工夫しながら隅田川を制御していったことを推理する以外にない。