AKBからYOASOBIの『アイドル』へ...なぜ時代は、萌えから「推し」に変わったのか
2025年01月03日 公開
近年は何かと「推し」「推し活」という言葉が使われる。かつてはオタク文化として「萌え」という語彙が用いられていたが、なぜ「推し」に変わったのか。文芸評論家の三宅香帆氏が、AKB48、YOASOBIの『アイドル』、「=LOVE(イコールラブ)」の『絶対アイドル辞めないで』などから、令和のアイドル像を読み解く。
※本稿は、『Voice』(2024年12月号)の著者の連載「考察したい若者たち」より抜粋、編集したものです。
「推し」の時代、「萌え」の時代
令和最大のヒットとは何だろうか。2020年代前半に限って言えば、それはもう、これだ。
「推し」である。
思えば令和という時代とともに「推し」の時代はやってきた。それまでAKB48グループのファンに限られていた「推しメン」という語彙は、いつしか人口に膾炙し、「推し」という言葉にずらされていく。
2020年に、宇佐見りんの小説『推し、燃ゆ』(河出書房新社)が芥川賞を受賞した。そして2021年には「推し活」がユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされた。令和と言えば「推し」、「推し」と言えば令和、というくらい、現代の時代性と「推し」がセットで語られる......というのは私の偏見だろうか。
そもそも「推し」とは、自分が好きで、そして応援したり他人に薦めたりしたい対象のことだ。つまり、自分が対象をとても好きという感情があり、そのうえにさらに、何らかのポジティブな形で好きな相手に関わりたいという行動が追加されて初めて「推し」となる。
そのため、しばしば「推し」とは自分のアイデンティティを指す言葉としても使用される。つまり「私の推しは〇〇です」という表現は、「私とは〇〇を好きな人間です」という意味を内包している。
たとえば「私の推しは、はんにゃの金田さんです」と言うとき。そこには「金田さんが好き」という感情以上に、「金田さんの出ている番組や配信を見る」「金田さんの活躍を喜ぶ」という行為が入る。あるいは「私の推しはVTuberの月ノ美兎です」と言うとき。やはりそこでは配信を楽しんだりイベントを楽しんだりする行動が意図されている。
ひとまず、「推し」とは次のような構図で描き出すことができる。
推し=好き+行動する対象
「考察ドラマ」の流行が、コロナ禍以降、つまり2020年以降のヒットであることに鑑みると、「推し」と「考察」はほとんど同時期にヒットしている語彙であることがわかる。
さて、そんな「推し」の時代から時計の針を戻そう。平成――「推し」が浸透する以前は、誰かを好きだと思うことは、どんなふうに呼ばれていたのだろう。
そこには「萌え」があった。
2005年に「萌え~」がユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされたことをあなたは覚えているだろうか。あるいは、2005年に『電車男』(中野独人、新潮社)がドラマ化・映画化して大ヒットし、「萌え」という語彙を広めたことを覚えているだろうか。
そう、「萌え」とは平成の大ヒットコンテンツだったのだ。
推しの令和、萌えの平成。あなたがシンパシーを覚えるのは、いったいどちらの時代だろう?
なぜ「萌え変」とは言わないのか?
批評家の東浩紀は、「萌え」とは、1990年代にヒットしたキャラクタービジネスにおいてきわめて重要な概念であったことを指摘している。
1990年代のキャラクタービジネスとは何か。それは、1990年代以降に市場で存在感を増した、マンガやアニメ、ゲーム、トレーディングカード、フィギュア、イラストといったさまざまな企画の総称である。ポイントは、それらの最も重要な骨組みになるのが、物語ではなくキャラクターであることだ。
たとえば「萌え」のイメージはないかもしれないが、この時代から始まるヒット商品としてわかりやすいのが、任天堂から1996年に発売され、それ以降大ヒットし続けている「ポケットモンスター」シリーズ。いまやゲームにとどまらず、ポケモンのカードやぬいぐるみ、フィギュアやイラスト、映画もヒットした。
しかし、ポケモンという企画の核には何があるのかと考えたら――よくわかるとおり、決してサトシとピカチュウの出会いではない。ピカチュウをはじめとした、ポケモンというキャラクターそのものが企画の最重要項目であることは、容易に想像がつくだろう。
そしてとくにキャラクターに対する「萌え」の感情が、たとえばマンガやアニメを楽しむだけでなく、そこに登場する好きなキャラクターのフィギュアを買ったり、あるいはイラストを二次創作して描いたりすることにつながる。
物語よりも、キャラクターが重視される時代。キャラクターに「萌え」たオタクたちは、ジャンルを問わずキャラクターの消費に手を伸ばすようになった。
なぜ、オタクたちは猫耳のキャラクターに萌えるのか? それは結局、インターネットで日々膨大な量の「萌え」データベースにアクセスした結果、猫耳と言えば「萌え」の対象だ、と思うようになったからではないか。東はそう語る。
つまり、たとえば「萌え袖」という言葉が指すような服の着こなしは、「こういう袖の出し方ってかわいい」という共有されたデータが多くの人びとの頭の中にあるからだ、ということだ。このような「萌え」の根底にある消費行動を、東は「データベース消費」と呼んだ。
さらに東は「萌え」について、人間的な「欲望」ではなく、あくまで動物的な「欲求」であると、アレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』(国文社)を引用しながら語る。
「欲求」とは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な渇望を意味する。たとえば空腹を覚えた動物は、食物を食べることで完全に満足する。欠乏―満足のこの回路が欲求の特徴であり、人間の生活も多くはこの欲求で駆動されている。
しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それが「欲望」である。欲望は欲求と異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。(中略)オタクたちの消費行動もまた、「動物的」という形容にまさに相応しいように思われる。
(東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社現代新書)
つまり、「萌え」とは「なんとなく自分は猫耳が好きだ」とか「なんとなく眼鏡のクールなキャラが好きだ」といったデータベースから反応する反射的な欲求だということだ。
――この図式に当てはめてみると、はたして「推し」は人間的社会的な「欲望」にカテゴライズされるのだろうか? 私は、そんなことはない、と考えている。
つまり「推し」にもまた、東の言うようなデータベース消費――「なんとなく自分は猫耳が好きだ」とか「なんとなく眼鏡のクールなキャラが好きだ」といったデータベースから生まれた趣味嗜好から誕生する「萌え」の感情が根底にある。
実際、「推しメン」(*1)という言葉を流行させたAKB48グループは、秋葉原、つまり「萌え」文化の中心的場所からスタートしたアイドルグループである。VTuberの興隆などに鑑みても、1990年代以降のキャラクター「萌え」文化と、2020年以降の「推し」文化双方の背景には、同様に東の言うデータベース消費文化が存在する。
データベース消費による説明は非常に明快で、わかりやすい。が、これだけ理解すると、「萌え」も「推し」も変わらないのでは? と思えてしまう。単純に好きなキャラクターに関するグッズを購買したりする行動は「萌え」も「推し」も同じで、それを「好きだから買う」か「応援のために買う」か、表面的な目的が異なるだけなのでは? と感じてしまうかもしれない。
しかしこの2つには、明確に異なる点がある。「萌え」の対象は「変わる」ことが前提にあることだ。
オタクたちの萌えの感覚は、つねにキャラクターの水準と萌え要素の水準のあいだで二重化されており、だからこそ、彼らは萌えの対象をつぎつぎと変えることができる。
(東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』)
つまり「萌え」とはきわめて瞬間的な欲求のことを指した言葉なのである。たとえば「萌え変」とは言わない。「萌え」は一瞬のなかであふれ出す感情であり、対象が変わるのは当たり前だからだ。
一方で「推し変」という言葉は存在する。「推し」は一瞬の感情ではなく、継続的な行為であるとされており、対象を変えることは一大事だからだ。「推し」は変えることが当たり前ではないからこそ、「推し変」という語彙が生まれたのである。
つまり、図式化するとこのような差異が見える。
萌え=好き
推し=好き+行動する対象
では、「推す」行動の正体とは何なのだろう?
報われない「萌え」、報われる「推し」
精神科医の熊代亨は著書『「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド』(大和書房)で、「萌え」は鏡映自己対象としての役割、「推し」は理想化自己対象としての役割を求めるものだと説明する。
鏡映自己対象とは承認欲求を満たす、つまり自己愛を満たせるほど愛してくれたり褒めてくれたりする対象のこと。理想化自己対象とは所属欲求を満たす、つまり自分がこうなりたいと思う、尊敬したり憧れたりする対象のこと。そう熊代は説明する。
だとすれば「萌え」と「推し」の間にあるものは、自分との距離だ。「萌え」は自分と同程度か自分より少し低いところにいる対象に発動する。しかし「推し」は理想化するくらい、自分よりも高いところにいる対象に発動する。要は、「萌え」は応援するものではないが、「推し」は応援するものなのだ。
「推し」には、応援したり推薦したりする、つまり、上に押し上げたいという欲求が存在する。だが「萌え」は、自分と近い場所にいてくれることが重要である。
『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイに萌えるオタクが「綾波レイにもっと人気になってほしい!」なんて思わない。だが『名探偵コナン』の安室透を推すオタクは、安室透に100億の男になってほしいのである(*2)。ここに熊代の指す「鏡映自己対象」と「理想化自己対象」の違いがある。
つまり「萌え」は好きな対象への瞬間的な欲求だが、「推し」には自分のアイデンティティを代替させたいという欲求が入り込む。「推し」は、自分の理想化した行動をとってほしい、その理想化の一部に自分もなりたい、という理想アイデンティティを託す対象なのだ。
だとすれば、「推し」に対する応援や推薦は、「理想化された姿になる」ことがゴールになる。「推し」とは、自分と対象の「理想」が重なっていると信じられるときに生まれる存在なのである。
萌え=好き
推し=好き(萌え)+理想に向かう行動
「このカップリング、推せる」「このキャラ、一生推す」と言うとき、「私が追い求めていた理想に近く、その理想を実現するために応援したい」という意図が入り込む。
たとえば清少納言が、藤原定子没落時、没落以前の思い出を『枕草子』にあえて綴ったことは有名なエピソードだ。清少納言にとって定子とは「推し」であったと言うとき、清少納言にとって取り戻すべき「理想化した定子」が存在しており、それを取り戻すために『枕草子』を書き連ねた、という解釈が可能であろう。
あるいはネットで流行する「推しは推せるときに推せ」という言葉がある。これはつまり、「卒業やスキャンダルなど、推される側もどうなるかわからないのだから、好きでいられるタイミング=自分と推される側の理想が重なるタイミングにおいては、その理想を応援しよう」という意味である。
「萌え」はありのままの対象への感情である。一方で、「推し」はありのままの対象への感情とともに、理想化された対象への行動でもある。だとすれば、「推し」が「考察の時代」に流行する理由もわかる。「考察」では正解を解くことで「報われる」。また「推し」も、理想へ到達すれば「報われる」。
「推し」の代表例としてしばしば挙げられるのがアイドルだ。アイドルはたとえば東京ドームに行くことや「ミュージックステーション」に出演することといった理想のゴールを描きやすい。そしてその理想に至り、ファンとアイドルがともに報われるために行動する、という道筋を示すことができる。
元AKB48の高橋みなみが現役時に「努力は必ず報われる」と語ったことがグループの象徴的な出来事とされているが(*3)、これはまさに理想化自己像を背負うことについて「推し」側から語った言葉だった。
「報われる」とはつまり「理想の自分になることができる」ということだからだ。平成を象徴するAKB48が令和的な「推し」という語彙のきっかけになったように、高橋の発言もまた「理想化自己像」の萌芽と言えるかもしれない。
「推し」という対象には、理想という達成すべきゴールがあり、その理想に向かう道筋が報われることを望む。考察とともに、推しもまた、「こうすれば報われる」理想という名の達成目標がどこにあるか設定されうる。
「批評」はゴールがなく、「考察」にゴールがあったように。「萌え」には「こうすれば報われる」ゴールなどない。どのような行動をとれば「萌え」を表現できるのか、それは人それぞれである。
しかし「推し」は「こうすれば報われる」ゴールが、一人ひとり設定されている。それは理想という名のゴールのことだ。推すことを表現する行動――「推し活」は、対象の理想に向けて行動することを指す。
理想を体現する令和のアイドル像
音楽ユニットYOASOBIの楽曲で2023年に爆発的にヒットした『アイドル』には、「マリア」という単語が出てくる。『アイドル』はアニメ『【推しの子】』の主題歌として書き下ろされた曲である。つまり「推し」時代のアイドルの表象として、YOASOBIは「マリア」という理想を歌った。
「(聖母)マリア」という言葉に代表されているとおり、この曲は、完璧なアイドルだった星野アイはもとより、その子として生まれてきた星野ルビーも描き出しているのではないか。「一番星の生まれ変わり」であり、「マリア」であるアイドル。そんな母(アイ)の子として、生まれたときからアイドルになることを宿命づけられたのがルビーである。
――もちろんそんなことは無理である。マリアの子として生まれてくるなんて、とうてい無理なはずである。しかしそんな理想を求められるアイドルは、理想を演じる嘘をつく、という曲の構成になっている。
つまり、YOASOBIは『アイドル』で「推し」とは理想の自己なのだと歌っているのだ。それは決して「萌え」の対象ではない。「推し」の時代に、「一番星の生まれ変わり」であるかのように、「歌い踊り舞う」アイドルを歌ったからこそ、YOASOBIの『アイドル』はヒットした。
一方で、元AKB48の指原莉乃がプロデュースするアイドルグループ「=LOVE(イコールラブ)」に『絶対アイドル辞めないで』(2024年)という楽曲がある。この曲は指原が作詞を手掛け、TikTokでは楽曲再生数一億回超のヒットとなっている。
本曲は「君(アイドル)の努力」と「私(ファン)の愛」でアイドルとファンの関係は成り立っているのだと歌う。「絶対アイドル辞めない」という達成されない理想(本楽曲ではアイドルはいつか卒業することが前提となっている)への願望を伝えながら、それでいてこの理想を「報われないおとぎ話」と締めくくる歌詞構成となっている。
平成にヒットしたAKB48グループの曲は「アイドルとファンの関係」を疑似恋愛に見立て、恋愛ソングを流行させた。一方で、令和にヒットした『アイドル』や『絶対アイドル辞めないで』は、「アイドルとファン」について、理想をともに追う関係として描き出している。アイドルが「萌え」の対象であれば疑似恋愛だったのが、「推し」であれば理想を追う仲間となる。
もちろん現代においても「推し」のなかに「萌え(好き)」の感情は入り込んでおり、「萌え」がなくなったわけではない。それ以上に、「応援=理想を追う行動」が加わっているのだ。だからこそ、スキャンダルのような理想が壊れる瞬間が悲劇的になりうる。
――だとすれば「推し変」とは、理想という名のゴールをともに追わなくなったことを指す。「推し」は「萌え」と違って、一瞬の感情ではなく継続的な関係を求めるが、どうしても「報われない」場合はゴールを変更してもいい。アイドルファンにはそのような無言の前提がある。それほどまでにいまは、アイドルを好きになるときも「報われたい時代」と言うことができるのかもしれない。
【注】
*1:AKB48の場合は「一推し」「二推し」など、好きなメンバーが複数いる場合もしばしば存在する前提で、「最も推している(=最も応援している)メンバー」という意味で「推しメン」という言葉が使用されている。
*2:2018年に公開された映画『名探偵コナン ゼロの執行人』は、コナンシリーズのなかでも人気のキャラクター安室透が話題になった。本作を何度も観に行くファンのなかで、Twitter(現X)の「#安室透(降谷零)を100億の男にする(しようの)会」というハッシュタッグが流行し、興行収入100億円をめざそうとするムーブメントが起きた。
*3:レジー『ファスト教養』(集英社新書)は、高橋の発言をAKB48と新自由主義的な風潮の交差点として読み解いている。