『あなたの番です』『変な家』...令和の若者に“考察ドラマ”がヒットする理由
2025年01月02日 公開
昨今、ドラマやアニメの解釈を語る「考察記事」や「考察動画」が世の中にはあふれている。文芸評論家の三宅香帆氏は、昭和・平成は「批評の時代」だったが、令和のいまは「考察の時代」だと指摘。『あなたの番です』『変な家』『君たちはどう生きるか』など、近年話題を呼んだエンタメ作品から、令和のヒットの法則を読み解く。
※本稿は、『Voice』(2024年11月号)の著者の連載「考察したい若者たち」より抜粋、編集したものです。
令和の「考察ドラマ」がヒットする理由
「考察」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
その言葉が特別な文脈のなかで注目されたのは、2019年だった。ドラマ『あなたの番です』(日本テレビ系)がきっかけだ。作詞家の秋元康が企画を手掛け、ヒットした。
考察とは何か。それは事件の真犯人などの「謎」を、作中のヒントから推察し、その推察をSNSやブログで語ることを指す。
『あなたの番です』、通称「あな番」は2クール計20話、日本のドラマにおいては異例の長さで放送された作品だ。最終回には日本テレビ日曜ドラマ枠最高視聴率(19.4%)を叩き出し、SNSのTwitter(現X)で世界トレンド1位を獲得した。この大ヒットドラマは、いつしか「考察ドラマ」と呼ばれるようになった。
といっても、「あな番」以前からSNSでドラマの「考察」を語り合う文化は、少しずつ流行していた。なにも「あな番」がはじめて考察をつくり上げたわけではない。
たとえば『カルテット』(2017年、TBS系)は、SNSやブログでファンが先の展開予想について語り合うことで視聴者を増やした。もっと時を遡ると『あまちゃん』(2013年、NHK)は、作中に登場する歌詞についてさまざまな人が「考察」していた。
つまり、2010年以降じわじわと浸透していた、ドラマの考察をSNSで楽しむ文化。それが2019年になって――すなわち時代が令和になってから――制作者側が狙ってヒットを生み出せる素地になった。
そう、「あな番」がそれまでのドラマと異なるところは、制作者側の狙いにある。「あな番」は、制作者が「考察」を狙い、ヒットした作品だったのだ。本作は視聴者がSNSで「考察」を拡散し楽しむことを前提としてつくった。プロデューサーの鈴間広枝はそう語る。
一部のコアな方たちが「考察」をしてくれたらいいなと、作る側としてもヒントを仕込みました。脚本家の福原さんも、すごく上手にみんなを怪しく描いてくださって、監督陣も役者さんもその"怪しさ"の具合を話し合いながら、楽しんで作っていました。何度も見て、きっとヒントを見つけてくれるだろうと。
でも予想を上回る人たちが、鋭い「考察」をしてくれたので私たちも驚きました。ほとんど仕込んだヒントはみなさん見つけてくれたと思います。原作がないからこそ、次の展開がわからないし、真犯人は誰も知らないからこそ、みんなが「考察」をしてくれたんだと思います。想像以上に精緻に「考察」がなされたので、こちらのミスのところも余計な憶測を呼んでしまったり、反省点も多くあります。
(博報堂DYメディアパートナーズ、2019年10月8日)
つまり「考察ドラマ」には、3つのプロセスが存在する。
①作者(広い意味でのドラマ制作スタッフ)が、作品に謎とヒントを仕掛ける。
②視聴者はヒントを見つけ、謎ときの材料にして、シェアする。
③作品内で、謎解きが行なわれる。
正直、このようなプロセスのみを見ると、「なんだ、ただのミステリ小説やミステリ映画がやってきたことじゃないか」と思うかもしれない。しかし、そう片づけるにはまだ早い。面白いのは、一見ミステリジャンルにカテゴライズされないであろう作品すら、SNS上では「考察」が盛り上がるところだ。
「あな番」のヒットを契機に、考察ドラマは世間に広く浸透した。令和になってからというもの、2021年『最愛』(TBS系)、2021~2022年『真犯人フラグ』(日本テレビ系)、2023年『VIVANT』(TBS系)などのドラマは、地上波放送よりも視聴者層が若いTVerで多く見られるなど、とりわけ若者のあいだで流行した。
だが、このうち『最愛』はサスペンスとラブストーリーが入り混じったドラマであり、『VIVANT』は会社員が冒険に巻き込まれる展開から始まるドラマである。実際『VIVANT』監督の福澤克雄は「僕は考察ドラマを作る気は全くなかった」「考察のことは一切考えず"ドラマとしてどうなるか"ということだけを考えて作りました」と語る(「ORICON NEWS」2023年12月5日)。
だとすれば、これらのドラマにおいては、むしろ視聴者がSNSで自ら「考察」できるポイントを探そうとしているようにすら見える。
令和の視聴者にとって――とくに若者世代を中心に――「考察」とは、フィクションを楽しむ一つの手段となっている。その傾向は、小説の世界でも現れている。
令和の大ヒット小説『変な家』は「考察小説」
2024年にシリーズ累計発行部数250万部を突破し、異例のヒットを達成した小説シリーズがある。その名も『変な家』。飛鳥新社から刊行された、ウェブライター雨穴による作品だ。2024年3月には映画化され、興行収入は50億円を突破。来場者の7割は10代・20代が占めており、とにかく近年では珍しいほどに若者を中心にヒットしている。
もともとはウェブメディア「オモコロ」に掲載されたウェブ記事から始まり、のちにYouTubeに「【不動産ミステリー】変な家」として動画が公開された。その内容が小説として本になり、大ヒットした。
なぜ『変な家』は、ここまで売れているのか。さまざまな理由があるだろうが、私は本書を「考察小説」として位置づけたい。
『変な家』は、書き手の雨穴が、知人から不可解な家の間取りを手渡されたところから始まる。じつはその間取りには、謎が秘められていた......。『変な家』は、間取りに込められた一つひとつの謎を読者に提示し、最後に解決していく。その手つきは、まるで、考察ドラマかのようだ。
たとえばYouTube動画「【不動産ミステリー】変な家」でも「考察」を促すやり方は変わらない。動画の最後に「窓」に関する謎がそっと挿入されている。視聴者は、その謎の考察とともに動画について語りたくなる。実際に、『変な家』に関する「残った謎を考察しよう」というブログや動画が大量に生まれ続けている。
小説『変な家』の面白さの1つは、作品全体を通して、「間取りの謎」の話に終始しているところだ。間取りの謎が提示され、長編の第1、2章でたっぷりと謎の細部が用意され、第3、4章でゆっくりと謎解きがなされている。
これが従来のミステリ小説ならば、「謎」のほかに人間関係などのさまざまな情報が盛り込まれていたり、あるいはその間取りで行なわれた事件の詳細が綴られていただろう。しかし『変な家』の前半は、「間取りが不可解である」という謎の説明に終始している。そこに人間の感情は入り込まない。
なぜ『変な家』は、そこまで人間の感情や関係性を排除して謎のみを提示できるのか。答えは回答部分にある。間取りの謎は、おそらく読者が推理しきれない方向性で、回答が提示される。従来のミステリ小説とは違い、伏線を回収するのではなく、読者が自由に考察したのちに作者が答えを提示する構造となっている。
だからこそ、間取りに関するさまざまな人間関係の話は前半に登場せずに済んでいるのだ。必要なのは、謎を解く快感というより、謎を提示され考察し正解を知るプロセスそのものなのである。
批評の時代から、考察の時代へ
このように、令和では小説・ドラマ・動画を問わず、若い世代を中心に考察は社会現象になっているのだ。
私は現代を「考察の時代」だと考えている。考察は1つのフィクションの楽しみ方にとどまらず、現代特有の傾向を象徴しているのではないだろうか。
ここまで見たとおり、考察とは「作者が作品に仕掛けた謎を解こうとする」ことだ。たとえば、ドラマ制作者が作品に仕掛けた謎を視聴者が番組を見ながら解いていくこと、映画制作者が映画に忍ばせておいた秘密を視聴者が紐解くこと。どんな作品にせよ、令和になってから流行している「考察」は、作者が仕掛けた謎を、読者(視聴者・消費者)が解こうとするゲームのことである。
ではフィクションの楽しみ方で、「考察」がなかった時代は、何をしていたのか。――令和以前に流行していたのは、「批評」だった。
そう、平成以前とは、「批評の時代」だったのだ。批評とは「作者すら思いついていない作品の解釈を提示する」こと。つまり作者は作品の生みの親ではあるが、親が子のことをすべて理解しているとは限らないのと同じで、作者が作品のことをすべて理解しているとは限らない。このような態度を批評は取っている。
考察=作者が提示する謎を解くこと
批評=作者も把握してない謎を解くこと
たとえば『となりのトトロ』を見て「じつは宮﨑駿は、"サツキとメイはすでに死んでいる"という設定を潜ませているのだ」という解釈を行なうのは、考察である。「じつは"サツキとメイは幼いうちに日本で戦争によって亡くなった子どものメタファー"として捉えられる」という解釈を行なうのは、批評である。
重要なのは「作者の意図」への意識の有無だ。
批評から、考察へ。このようなフィクションを楽しむ人びとの変化は、何を示しているのか。つまり、フィクションを楽しむにあたり、解釈を「作者の意図」として受け取ったほうが安心できる人が増えている。そう言えるのではないか。
この時代の変化を象徴するのが、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』とその制作ドキュメンタリー『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK)の「庵野秀明スペシャル」を見た視聴者の反応だった。両作を見た視聴者たちのSNSを中心に、「庵野監督は妻の安野モヨコをモデルにしてマリを描いた」という意見が広がったのだ。
その後、庵野監督はXのエヴァンゲリオン公式アカウントで「それは一部の人の解釈・憶測にすぎません」と言及した。このやり取りから、「マリとは安野モヨコのような理解ある妻の"表象"である」という批評がもはや存在しておらず、「庵野監督は、安野モヨコを"モデル"にしてマリを描いたのではないか」という考察しか広がらない令和時代の視聴のあり方を見て取れる。
正解かどうかわからない個人の解釈を知っても、面白くない。作者が潜ませた"正解"を知ることのほうが、面白い。批評から考察へという流れのなかには、そのような「面白さ」の変化が存在しているのだ。
ジブリが提示する考察への回答
2023年に公開された映画『君たちはどう生きるか』(スタジオジブリ)。私が「考察の時代」の到来を実感したのは、ほかでもない本作のドキュメンタリードラマを見たときだった。
スタジオジブリの映画制作の様子を撮影したドキュメンタリーは昔から多かった。宮﨑駿監督の創作への葛藤と、それに巻き込まれる周囲のスタッフたちを映し続けるジブリのドキュメンタリー。それは現代のSNSやYouTubeで作者が制作過程を読者に見せる宣伝手法の、ある意味で先行例だったのかもしれない。
ここで再び登場するのが、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』だ。同番組の「ジブリと宮﨑駿の2399日」では、これまで撮ってきた宮﨑監督の創作への葛藤を映すにとどまらない。
なんと、『君たちはどう生きるか』の世間の考察に対して、「大叔父とは高畑勲がモデルで、アオサギとは鈴木敏夫がモデルで、眞人とは宮﨑駿がモデルなのだ」という「ジブリからの回答」があるかのように番組は提示しているのである。
『君たちはどう生きるか』という作品を、「宮﨑駿が高畑勲の死を乗り越えるためだけにつくった、自分たちの関係性をアニメに映し出した作品」という解釈を制作側が描き出した。「この映画は、こういう意図でつくったんですよ」と。
視聴者は安心するだろう。「そういうふうに見ればいいのか」と"答えがわかるのだから"。制作側の回答が明らかになったいま、"答え"を確かめにいこうと、もう一度映画を見に行く人もいるかもしれない。
一方、スタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫は、ラジオ『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』(TOKYO FM80・0、2024年4月14日)で、『プロフェッショナル』では語らなかった点について言及している。鈴木は『君たちはどう生きるか』の重要な点は、宮﨑駿が少年(眞人)の葛藤を描いたところにあるとの趣旨を述べていた。
だが、そのような箇所は『プロフェッショナル』では重点的に取り上げられていない。もちろん、鈴木がそもそもテレビでそれを言う気がなかったのか、言ったが取り上げられなかったのかはわからない。
『君たちはどう生きるか』において描かれた少年の葛藤の核には、宮﨑駿の母親への複雑な感情と、高畑勲や実の父親への愛憎渦巻く感情、どちらも描かれていた。アニメという創作を経て、主人公の少年である眞人は少女と別れ、父の跡を継ぐことを拒否する。そして大叔父は塔のなかで一人いなくなる。それは宮﨑の父の表象ではあるだろう。しかし宮﨑駿と高畑勲の関係として読むにはあまりに複雑すぎる。そんな難しい回答は、令和の「考察」では好まれない――。
そのように番組の制作側が時代の潮流を読んだのか、『プロフェッショナル』では鈴木がラジオで語ったような難解な回答は提示されなかった。SNSや考察が影響力を強めるいま、テレビというマスメディア側も「考察の時代」を意識したコンテンツを提供しているのである。
正解がない批評、正解がある考察
批評の時代から、考察の時代へ。いま、そのような変化が起きているとするなら、背景にはいったい何があるのだろう? 私が提示した「批評」と「考察」の違いを確認しよう。
考察には「正解」がある
批評には「正解」がない
そう、重要なのは解釈の「正解」の有無だ。
考察には、作者が提示する「正解」がある。『君たちはどう生きるか』を見て、解釈を提示すること。『変な家』を読んで、不可解な間取りの理由を知ること。『あなたの番です』を見て、真犯人は誰かを当てること。これらはすべて、作者側から提示された「正解」がある。
だが、批評に「正解」はない。『君たちはどう生きるか』を見て、眞人の母が眠り続けている理由を考えること。『変な家』を読んで、なぜ本作の最後に日本のムラ社会的なテーマが入り込むのかを考えること。『あなたの番です』を見て、本作が流行する背景を考えること。そこに「正解」はない。
だからこそ、批評にはゴールがない。
せっかく批評しようと頑張って努力しても、正解がなければ、その努力は報われない。だが考察は、正解がどこかにあるため、「わざわざ努力する価値がある」のではないか。報われやすく、やりがいもある。
考察は「正解」がある=報われるゴールがある
批評は「正解」がない=報われない
令和。それはもしかしたら、物語を楽しむことにすら「報われること」を求めてしまう時代なのかもしれない。ジブリの映画を見て、自分独自の解釈を巡らせることよりも、作者が提示する正解を当てる考察のほうが楽しめる。
ここで自分自身の「ネタバレ」をすると、筆者は「批評の時代」を生きてきた人間の一人である。なんせ肩書きは「文芸評論家」である。批評が好きで、この世界に入ってきたのだ。ぶっちゃけ、考察の時代の台頭に驚いている。しかし、だからこそ思う。「考察の時代」特有の流行は、今後さらに広がるのではないだろうか?
もはや時代は平成ではない。令和なのだ。批評の時代ではない。考察の時代なのだ。そんな時代の変化がさまざまなエンターテインメントで見られる。
令和を生きる若い世代は、報われる正解を求めて、エンターテインメントを「考察」しながら楽しんでいる。昭和・平成を生きていた人びとが驚くようなヒットの要因が、そこには存在するのである。