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推しに感動して「すごかった」しか言えない人が、感想を書き残すのは無意味か?

三宅香帆(書評家)

2024年10月31日 公開 2024年12月16日 更新

推しに感動して「すごかった」しか言えない人が、感想を書き残すのは無意味か?

面白い映画を見た、大好きなアイドルのコンサートに行って感動した、たまたま読んだ本が面白かった。だからこの感動を誰かに伝えたいと思った...。

そんな時に、いざ自分の感想を言葉にしてみようとしても、「よかった」「やばい」などの言葉しか出てこず、モヤモヤした気持ちを抱えた経験は、誰しも一度はあるのではないでしょうか。それでも、「「好き」は言語化したほうが良い。」と、書評家の三宅香帆さんは語ります。その理由とは?

※本稿は『「好き」を言語化する技術 推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を一部抜粋・編集したものです。

 

なんのために「推し」を言語化するの?

・「感動=やばい!」しか言えなくなる

「推しの素晴らしさを伝える文章」を書こう......!

そう気合を入れて、ファンレターを書くための便箋を買ってみたり、SNSアカウントを増やしてみたり、ブログを開設してみたりしたはいいけれど。そのあと、あなたはなにをしますか?

「よし、最近めちゃくちゃよかったライブの感想を書くぞ」と思ったとします。

なにから書こうか? うっ、書くことが思いつかない。「よかった」しか言葉がでてこない。じゃあ、セットリストの素晴らしさを書く? すごく聴きたかった曲が聴けたことについて? あ、それともMCのよさ? 推しの衣装について? ああ、なにから書こう。というか、あのライブの一番よかったところってどこなんだろう?

私は「推しの素晴らしさを言語化しようとしても、語彙力がなくて、いい言葉が思い浮かびません」と相談されることがたまにあります。じつは私も同じで、すぐには言葉がでてきません。「推しの素晴らしさを伝える文章」を書きたいと思うとき、大抵まずは頭の中がわーっと騒がしくなっています。

推しの魅力とか、簡単に言葉にできない。「最高だった」「やばかった」「すごかった」しか浮かばない。「推しを見て感動した」、その先が言語化できない。

でも、私はその状態が悪いことだとはまったく思いません。なぜなら、感動が脳内ですぐに言語に変換されないのは当たり前のことなんです。だって、感動とは言葉にならない感情のことを指すから。

 

昔の人も「やばい!」を使っていた!

古語に「あはれなり」という言葉があります。これって「なんか胸がじーんとする」「グッとくる」「うわあって言いたくなる」といった感覚をひと言でまとめた語彙なんですよね。胸になにかがグッと飛び込んでくる。そして、感情がぶわっとあふれる。あふれた感情はプラスの場合(=いいものだと思う)も、マイナスの場合(=悲しいものだと思う)もどちらもある。

良くも悪くも、感情が振り切れる体験──それが古語の「あはれなり」です。昔の人は、よくこんな便利な言葉をつくったものですよね。

しかし、現代語には「あはれなり」に代わる語彙がない。感動したとか、感激したとか、そういった言葉が一番近いですが「あはれなり」が指す感情すべてを包括する語彙はありません。だから私たちは、「あはれなり」の現代語バージョンとして、「やばい」という言葉をいつのまにか発明したのでしょう。

「やばい」って、それがプラスの感情だろうとマイナスの感情だろうと、どちらかに指標が振り切れているといった意味ですよね。いいときもよくないときも、なにか自分の感情が大きく動くような事態に対して、私たちは「やばい」を使う。あれは古語の「あはれなり」とまったく同じ意味なんです。

これは余談になりますが、そう考えている私は「『やばい』を使う最近の若者は語彙力がない!」って批判する気持ちがわからないんですよね。だって「やばい」って、要は「あはれなり」と同じ使い方をするんだから。平安時代はオッケーで現代ではダメなんて、意味がわからない!

そんなわけで、日本には昔から「感情が大きく動くこと」をひと言「あはれなり」でまとめてしまう文化があるわけです。そして、なぜ「あはれなり」でまとめられるかというと、もう、そう表現するしかないからです。

感情がぶわっと動く。なんだかすごいものを見た──なんだこれ。目の前で起こったことに対する自分の感情を言語化できないほどに、未知の事態である。そういう状況をもって、私たちは本当の意味で感動する。

だとすれば、自分の感情をすぐさま言語化できないことを恥ずかしく思う必要はないんですよ。むしろ、言語化できないほど感情を動かされるものに出会えたことを嬉しく思いましょう。そんな出会い、人生でなかなかあるものじゃない。

感情を大きく動かしてくれるって、それがたとえマイナスでもプラスでも、人生におけるすごく素敵なギフトです。

 

なんのために感動を言語化するの?

しかし「じゃあ感動を呼びさましてくれた推しに感謝! 感動は感動のままに、言語化せずに終わりましょう!」だと......SNSにもブログにもファンレターにもなにも書けずに終わってしまいます。それは困りますよね。いや、もちろん本当に感動した経験って、自分のなかに留めておいてもいいんですよ。なにも無理に他人へ伝えなくても、自分の記憶として脳内に置いておくのも一手です。

しかし私は、「たとえ自分しか見ない日記やメモのなかだったとしても、自分の言葉で感動を言語化して、書き記しておくのはいいことなんじゃないか」派です。

なぜなら、自分の言葉で、自分の好きなものを語る──それによって、自分が自分に対して信頼できる「好き」をつくることができるから。

私は書籍の中で「自分の好きなものや人を語ることは、結果的に自分を語ることでもあります」と書きました。そもそも、好きなものや素敵だなと思った人って、すごく大きな影響を自分に与えてくれますよね。もちろん嫌な経験や辛い出来事も自分を形づくるものではありますが、やっぱり好きなことの影響は大きい。

だとすると、自分を構成するうえで大きなパーセンテージを占める好きなものについて言語化することは、自分を言語化することでもあります。そして、なにかを好きでいる限り、その「好き」が揺らぐ日はぜったいにくる。私はそう思っているのです。

 

著者紹介

三宅香帆(みやけ・かほ)

文芸評論家

文芸評論家。京都市立芸術大学非常勤講師。1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院博士前期課程修了(専門は萬葉集)。京都天狼院書店元店長。IT企業勤務を経て独立。著作に『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない——自分の言葉でつくるオタク文章術』、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』など多数。

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