
現代では「報われなさそうな努力」は無駄なものとして切り捨てられがちだ。しかし、何か大きなことを成し遂げるには、そうした一見無益に見える努力を続けることが、実は重要な鍵となる場合がある。
本稿では、小説家(「『このミステリーがすごい!』大賞」大賞受賞)、AI研究者(東京大学・松尾豊研究室出身)、経営者(マネックスグループ取締役)の3つの視点から山田尚史氏が考える「タイパにとらわれない生き方」について、書籍『きみに冷笑は似合わない。』より紹介する。
※本稿は、山田尚史著『きみに冷笑は似合わない。SNSの荒波を乗り越え、AI時代を生きるコツ』(日経BP)を一部抜粋・編集したものです。
将来に対する予測可能性が高まった
皆さんは期待値というものをご存知だろうか。簡単に言えば、乱数によって報酬が決定される場合において、各報酬とそれぞれの確率の加重平均によって計算される、「どれくらい得しそうか」を数字で表したものである。
例えば、1000円払ってサイコロを1個振り、6が出たら3000円、2か4が出たら1200円、奇数なら0円が得られるゲームがあるとする。
偶数が出たら得をするので、1/2の確率で儲かるゲームに見えるが、いったん賭博としての違法性は無視して考えると、これは3000円×1/6=500円、2/6×1200=400円 として、初めに1000円払っているため、500+400+ 0−1000=−100、つまり期待値マイナス100円のゲームである。よって、やればやるほど統計的にはお金が減っていく。
現代は、この期待値のプラスマイナスばかりが注目され、結果の絶対値というものに目を向ける人が少ないように見える。その理由として、物理的要因による情報格差がインターネットによって解消したこと、すなわち情報の集積が圧倒的な速度で進み、またそれへのアクセスが容易になった結果、将来に対する予測可能性が高まったからであると私は考えている。
ここにおける予測可能性は、誤解なきように言うと、将来の予測は依然として不可能だが、パターンごとのリスクやリターンがわかりやすくなり続けているという意味だ。すなわち、サイコロを振ってどの目が出るかはわからないが、どの目が出ると何が起こるかはわかりやすくなった、ということである。無論、あくまで昔よりわかりやすいという程度で、依然としてブラック・スワンが存在することは言うまでもない。
ブラック・スワンとは、予測不可能で重大な影響を及ぼすことだが、後から考えたらなぜ予測できなかったのかわからない、と言われる事象のことだ。『ブラック・スワン 不確実性とリスクの本質(上)(下)』(望月衛訳/ダイヤモンド社)を著したナシーム・ニコラス・タレブによれば、ブラック・スワンには3つの特徴がある。
「一つは予測できないこと。二つ目は非常に強いインパクトをもたらすこと。そして三つ目は、いったん起きてしまうと、いかにもそれらしい説明がなされ、実際よりも偶然には見えなくなったり、最初からわかっていたような気にさせられたりすること」だ。
代表的なのは2008年のリーマン・ショックで、当時は唐突に起こった金融危機で、誰もが予測していなかったが、今ではその発生原因について一定の説明がなされているのがわかる。
話を戻して、期待値の解像度が上がったであろう具体的な例を挙げよう。ある学生が職業選択において、公務員になるか、教師を目指すか、地元にいるか、都会に出るか、あるいは専門資格を取るか、といった悩みを抱えているとする。
インターネットの普及以前であれば、その学生は自らの親か教師に意見を聞き、図書館に行って誰かの自伝を借りる、といった程度の情報で判断しなければならなかっただろう。そうなると、必然、進路として取りうる選択肢は親や教師の知識の範囲内に限定され、あるいはたまたま目についた自伝の数に左右されてしまう。
今を生きるあなたなら、インターネットの力を借りるに違いない。検索すれば、「理系の人気就職先ランキング」といった記事が数秒で見つかる。
それぞれの進路の想定年収が文字どおり一瞬で出てくるだろうし、どういった性格の人がその仕事に向いているか、どのようなことが仕事上でつらいか、といった情報が簡単に手に入れられ、自らの適性も判断できる。それぞれの会社の文化もわかるし、辞めていく人がどのようなことに不満を持っていたかについての口コミが残されていることもある。
資格試験について調べれば、合格倍率や合格までにかかった年数といった最新の統計データが公表されていて、どれだけ難関かがすぐに数字でわかる。さらに資格を取った後、どの事務所がどれくらいの給与で人を募集しているか、わざわざ個別に問い合わせるまでもない。検索すれば求人票が出てくるだろう。
要するに、確率分布とそのリターンが簡単にわかるようになったことで、期待値のプラスマイナスの精査も容易になったということだ。だからこそ、皆が自然にそれを重視して判断するようになっているように、私には思える。
人生をかけてつかみたいものに届きうる道
一方で、世の中には期待値がマイナスでも、他の選択肢では得られないほど大きなリターンを得られるものが存在する。例えば、ミュージシャンや漫画家、あるいは画家といった職業は、プロになろうとしてなれるものではない。正確な確率は算出が難しいので、なんとなくの推定をしてみると、プロデビューだけで1%以下、食っていけるほどに成功できる確率は0.1%から0.01%程度と考えていいだろうか。
選抜プロセスが明らかになっている例で言うと、宇宙飛行士は最難関の職業の一つだ。宇宙に飛ぶという栄誉はなにものにも代えがたいが、選抜試験の倍率は今では2000倍を超えると聞く。そして合格には肉体的、精神的なトレーニングが必要だ。
こうした夢に向かった活動の末、不合格となり進路変更せざるをえない場合、その間にできたはずの資格試験の勉強や就職活動を考えれば、その後のキャリアは不利になるだろう。その不利益を99.95%とか99.99%という確率に掛け合わせると、多くの人にとって期待値はマイナスのように見えてしまう。
もちろん、結果はくじ引きではなく、能力を見た選抜なので、「自分などが選ばれるわけがない」という気持ちも働くだろうし、仮に試験の選抜を通っても、全員が宇宙へ行けるわけでもないから、プラスの確率はさらに下がる。金銭面で見ても、宇宙飛行士が飛び抜けて高給取りということはなく、それより低倍率で高年収な職業はいくらでもある。
もちろん、就職したうえで働きながら宇宙飛行士を目指している人も多いと思うので、新卒のタイミングで考えるのはあくまで一例に過ぎないが、リソースをどれだけ割くかという考え方は同じである。
宇宙飛行士の例で納得できなければ、ミュージシャンや漫画家と言い換えてもいいが、期待値だけで見てしまうと、夢を追うよりも新卒で初任給の高い企業に就職し、サラリーマンとして働き続ける方が、よほど「賢い」選択に見える。だが、その先に宇宙飛行士やロックミュージシャンとして歴史に名を残す道はない。だから私は、夢を追うことが損だなんて考えは、大いに間違っていると思う。
期待値プラスの試行はやるたびに少しずつ得するが、達成したい大きな夢へ続いている道ではないことも多い。一方で大きな挑戦は、成功率は低いし、あるいは一生報われないかもしれないが、それでも人生をかけてつかみたいものに届きうる道である。
腐らず、焦らずに、こつこつと努力する
『達人のサイエンス 真の自己成長のために』(ジョージ・レナード著/中田康憲訳/日本教文社)は、人生そのものをマスタリーへの旅へと例えている。拙速に結果を求める姿勢や効率主義を強く批判し、一見成果が出ない中でも反復的な訓練を繰り返し、何かに長じていく行為そのものを尊ぶ姿勢について語っている。興味深いのは、この本が書かれたのは30年以上も前であるということだ。
同書では、マスタリーの道を行く人は全て、プラトー、すなわちなんの上達も見られない期間を過ごさなければならないと書かれている。しかも、そのプラトーの期間は、全体の8割から9割を占めるという。真に何かへの卓越を求めるのであれば、一生懸命、着実な努力を繰り返したうえで、なんの成果も感じられない期間を9割経験しなければならない、ということだ。
そしてこの本の中でも、ダブラー、オブセッシブ、ハッカーといったマスタリーから遠ざかってしまう人の類型が紹介されている。
30年前ですらもそうだったのだから、成功者が容易に可視化され、他の道を探せてしまう現代においては、人が練習に耐えきれない気持ちはさらに強まるだろう。SNSを開けば、そのとき最も注目されている人がもてはやされ、自分とは何もかも違うように感じられる。
そんなときに、報われるかもわからない地道な訓練をこつこつと繰り返すことができるだろうか? もっと効率のいいやり方があるのではないか? そもそも上達などしなくとも、結果にすぐ結びつくようなチャンスが転がっているのではないか? あるいは、どうせやっても変わらないなら諦めてしまおう、今は練習なんかやめて、無限にあふれるコンテンツを楽しめばいい、と考えるかもしれない。
しかし、本当に大事なことは、そうしたときでも腐らず、焦らずに、こつこつと努力することなのだ。これは比喩ではないし、努力した先に成功がある、などとも言っていない。たとえプラトーであろうとも、努力をする過程そのものを楽しむべきだ。人生が続く限りそのマスタリーの道は続いていくのだから。
と、言葉で言うのは簡単だが、誘惑の多い現代において、目の前の快楽から目を背けるには大変な自制心を要する。
昔はそうではなかった。私が小学生のころは、家にあったのは小説のほか、せいぜい漫画や映画、テレビゲームくらいで、私たちを永遠に熱中させるのがそれらのコンテンツの目的ではなかった。漫画やゲームは買ったときにお金を払うもので、終わりもあり、買った後でどれだけそのコンテンツが楽しまれようと売上が増えるわけではない。
信用の蓄積という意味で消費者を満足させることは必要だったが、あまりに面白すぎてそれしか遊ばないゲームを作ってしまうと(そんなことが可能であればだが)、今度は自社の別のコンテンツを買ってもらえないというダウンサイドすらあった。消費者としても、遊んでいる間、読んでいる間はもちろん楽しかったが、それに熱中して生活のバランスを欠くような人は、多少はいただろうがそう多くはなかった。
翻って今は、ソーシャルゲームにせよ、SNSにせよ、動画サイトにせよ、ユーザーの離脱率を常に監視し、1秒でも長くそこにとどまらせるために日夜改良を重ねている。
そうするとプラットフォームが儲かるから、インセンティブのうえでは正しい行動なのだが、通常の域を超えてそこにとらわれてしまった人にとってはたまったものではない。瞬間的な満足に慣れてしまうと、つらくとも長期的な投資を行うことは耐え難く感じる。勉強を始める前、寝る前にちょっと動画でも、と思って、気づけば1時間たっていたという経験は誰にでもあるだろう。
そうした習慣を完全に断つ必要はないが、それでも将来に向けた努力というものはこつこつと続けていく必要がある。その差は本当に小さなもので、ちょっとサボってしまったとて、今日目に見える変化はないだろう。明日も変わらない。
1週間後に、ようやくわずかに差が見えてくるかもしれないものである。だが、1年もたてば失ったものは歴然で、3年もすれば取り返しがつかなくなっているだろう。最近、SNSや動画サイトにのめり込みすぎかもしれないと思い当たる人は、一度ゆっくりと行動を省みることをおすすめする。