初対面のワトソンを「アフガニスタン帰りの軍医」と当てたホームズの推理力は、人間離れしているように見えます。しかし実はホームズには実在のモデルがいて、その人物もまた、一目見ただけで相手の素性がわかったのだと、イギリスのノンフィクション作家ダニエル・スミス氏は言います。
ホームズもモデルの医師も、どのような道筋を辿って結論を導いたのでしょうか。『あらゆる問題を解決できる シャーロック・ホームズの思考法』よりご紹介します。
※本稿は『あらゆる問題を解決できる シャーロック・ホームズの思考法』(かんき出版)より一部を抜粋編集したものです。
名探偵の論理的推理の道筋
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「僕は推測などしない。あれは悪しき習慣だ――論理的能力をぶち壊してしまう」
(『四つの署名』より)
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ホームズの驚くべき才能がじゅうぶんに発揮されるのは、われわれ凡人には重要だと思えないような証拠から推理を働かせているときだ。
そこから導き出される結論は、このうえなく正確で、ひょっとしたらホームズは神通力や超能力の持ち主ではないかとも思いたくなってしまう。
では、彼の論理的推理はどういう過程をたどっているのか?
〇証拠を集める
その研ぎ澄まされた観察力によって、ホームズは一見、役に立ちそうにないものからも驚くほど多くの情報を集めることができた。
〇適切な問いを立てる
自分が答えを知りたいと思う事柄に対して、ホームズは頭の中で明快な問いを立てた。この人物の服装で、出身地や職業を示す手がかりはないか? 犬が吠えないということは何を意味するのか? 1日に数時間百科事典を書き写すために、なぜ赤毛の質屋が必要となるのか?
〇仮説を立てる
ベイカー街に1人の医師がやってきた。手には傷だらけのステッキ、靴にはロンドンでは見かけない色の泥がこびりついているが、それ以外はきちんとしている。
なぜ、そんな恰好をしているのか? 足元には気を配らないタイプなのだろうか? ロンドンじゅうの靴磨き少年がストライキをしているのか? 田舎で診察を終えてから急いで来たのか?
〇仮説を検証する
医師は身なりがよいので、靴だけ気を配らないというのは考えにくい。先ほど散歩に出かけたときに、靴磨きの少年を見かけたので、ストライキ中ではない。ただ、医師は動揺してベイカー街まで駆けつけた様子だ。
〇結論に達する
なぜ田舎の診療所から急いで来たのか、医師に尋ねてみる。
初対面のワトソンを「アフガニスタン帰り」と当てた理由
『緋色の研究』でワトソンとはじめて対面したとき、ホームズは論理的推理を実演してみせた。ワトソンはロンドンで下宿を探していて、ホームズも同居人を求めていた。2人を引き合わせたのは、共通の知人であるスタンフォードだった。
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「ワトソン博士だ。こちらがシャーロック・ホームズ氏」スタンフォードは私たちを紹介した。
「はじめまして」彼は心のこもった口調で言うと、信じられないほど強い力で私の手を握りしめた。
「アフガニスタンにいらっしゃいましたね」
「なぜそれを?」私は驚いて尋ねた。
「それはさておき」彼はにやりとした。「目下、重要なのはヘモグロビンです。この僕の発見がいかに重要だか、おわかりいただけますよね?」
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こんなふうにして話は進む。2人は同居することとなり、やがてホームズはどのようにして驚くべき洞察に至ったのかを説明する。
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きみがアフガニスタン帰りだと、すぐに気づいたんだ。長年の習慣で、頭の中で一連の考えが猛スピードで駆けめぐって、途中経過を意識せずに結論に至った。といっても、もちろん途中経過はある。その流れを説明しよう――ここにいる紳士は医者に見えるが、軍人っぽい雰囲気もある。ということは、軍医だ。温帯地域から帰ってきたばかりだ。その証拠に顔が黒い。手首は白いから、もともとの肌の色ではない。やつれた顔を見ると、苦労や病気を経験したのだろう。左腕を負傷している。ぎこちない、不自然な状態だ。英国の軍医がこれほど苦労して、腕に傷を負うような温帯地域とはどこか? アフガニスタンにちがいない――と、ここまで考えるのに1秒とかからなかった。それで、きみにアフガニスタン帰りだと言ったら、驚かれたというわけだ。
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ホームズのモデルとなった実在の医師
こうした名推理は、コナン・ドイルが実在の人物からインスピレーションを得たものだ。その人物とは、スコットランド人医師のジョゼフ・ベル。
コナン・ドイルは1870年代にエジンバラ大学のベルのもとで医学を学び、のちに恩師に手紙を書いている。「シャーロック・ホームズが生まれたのは、間違いなく先生のおかげです。(中略)ホームズの分析作業は、先生が外来棟で手腕を発揮されていたとおりのもので、けっして誇張ではないと考えています」
ベルの特殊な能力は、患者を診察する際に、とくに問診はしなくても、相手の来歴を見抜けるというものだった。聞くところによると、千鳥足で船乗りだと気づき、タトゥーから渡航先の見当をつけ、手元を見ただけで職業がわかったらしい。
実際、コナン・ドイルは、ベルのみごとな推理を目の当たりにしたことがある。ある患者を前にして、彼が下士官で、カリブ海のバルバドスに駐屯する高地連隊を除隊になったばかりだと言い当てたのだ。
ホームズ曰く、推理とは「一滴の水からナイアガラの滝を想像する」
『緋色の研究』で、ある朝、目を覚ましたワトソンは、ベイカー街221Bのテーブルに置かれた雑誌に気づいた。あるタイトルに鉛筆で印がつけられていたので、何とはなしにその記事を読んでみる。
やや大げさな「生命の書」という表題がつけられたその記事は、観察力のある人間は、目の前にあるすべてのものを綿密かつ体系的に調べることで多くの情報を得るという主旨だった。鋭い意見でありながらも、ばかばかしさは否めなかった。論理は緻密で説得力があるが、結論はこじつけで誇張されているとしか思えない。
著者によると、一瞬の表情、筋肉の痙攣、視線によって、相手の心の奥の考えを見抜けるという。また、観察と分析を極めた者に対してはごまかしがきかない。
この結論は、ユークリッドの諸命題と同様に完全無欠である。初心者は度肝を抜かれるだろうから、その結論に至るまでの過程を理解するまでは、著者を黒魔術師か何かだと思ってもやむをえないとのことだった。
最初、ワトソンはその内容に否定的で、「言語道断のたわ言」だとして「こんなくだらない記事は読んだことがない」と切り捨てた。ところが少しして、ホームズは自分が書いたものだと明かした。つまり、名探偵の研究者にとっては、みずから推理のプロセスを解説しているこのうえなく貴重な場面なのだ。
「一滴の水から」と著者は語る。「論理的に考えれば、大西洋やナイアガラの滝についてまったく知らなくても、その可能性を推測することが可能である。同じように、すべての生命体は大きな連鎖であり、その一部を見ればおのずと本質がわかる。技芸がことごとくそうであるように、推理と分析の科学も長く辛抱強い研鑽によってのみ習得できるものであり、いかなる者にとっても、可能なかぎり最高レベルに達するには人生は短すぎる。
したがって、このうえなく難度の高い精神的および知能的な分野に挑む前に、もっと初歩的な問題に取り組むほうがよいだろう。まずは、ある人物を前にしたときに、その経歴や職業をひと目で見抜けるようになるべきだ。
そうした訓練は子どもだましに思えるかもしれないが、観察力が鍛えられ、相手のどこを見て何を探すべきかがわかるようになる。爪、上着の袖、靴、ズボンの膝の部分、人さし指と親指のタコ、表情、シャツのカフス......そうしたものの一つひとつによって、職業をはっきりと見てとることができる。すべてを合わせて考えれば、能力のある者は、まず間違いなく答えに行き着くはずだ」
「そう、僕は観察力と推理力に秀でている」とホームズはワトソンに言う。
「そこに書いた理論は、きみにとっては奇想天外かもしれないが、実際にはこのうえなく実用的なんだ――パンやチーズを賄えるくらいに」
【ダニエル・スミス(だにえる・すみす)】
ノンフィクションの作家、編集者、リサーチャーとして活躍。おもな著書に『Sherlock Holmes: An Elementary Guide』『Forgotten Firsts: A Compendium of Lost Pioneers』『Trend-Setters and Innovations』、クイズ本『Think You Know It All?』など。図書館にこもっている以外は、妻のロージーとさまざまな魚たちとともにイースト・ロンドン在住。
【清水由貴子(しみず・ゆきこ)】
英語翻訳者。上智大学外国語学部卒。おもな訳書に『How to BePerfect 完璧な人間になる方法?』(小社刊)、『初めて書籍を作った男 アルド・マヌーツィオの生涯』(柏書房)、『トリュフの真相 世界で最も高価なキノコ物語』(パンローリング)、『ニール・ヤング 回想』(河出書房新社)などがある。







