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同じ年齢だから同じ学年は“誤解”? 発達に合わない教育が子供を苦しめる理由

高原晋一

2026年02月04日 公開

同じ年齢だから同じ学年は“誤解”? 発達に合わない教育が子供を苦しめる理由

日本の学校教育では、いまも「一斉・同一」の指導が中心です。しかし、発達障害や非定型発達、非常に高い知能を持つ子供など、画一的な枠組みに当てはまらない子供たちは少なくありません。本来、特別支援とは"通常の授業から十分な益を得られない子供すべて"を対象とするものですが、日本では発達障害の診断がある子に限定して捉えられがちです。こうした誤解が「例外的な子供の教育(ECE)」を遅らせ、生きづらさを生む要因にもなっています。

教育研究者の高原晋一さんは、子供一人ひとりの特性を尊重し、多様性を包摂する教育こそが必要だと指摘します。本稿では、その課題と可能性を考察します。

※本稿は、高原晋一著『スクールカウンセリングは日本の学校教育を変えられるか』(インプレス)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

日本の「特別支援教育」は教員中心の見方

日本でいう「特別支援教育」は、アメリカでは「ECE」に当たります。日本で言われているニュアンスとは異なり「特別視」するための教育という意味は希薄です。

アメリカでは、通常の授業からでは、期待されるような利益を得られない子供を、「ECE(Exceptional Child Education)」を要する子供として分類します。特別な配慮が必要な子供のなかには、知的障害などのように、通常の授業の内容を、他の子供達を同じようには理解しない子供もいますが、非常に知能が高いために、通常の授業では利益を得ることがない子供もいます。

日本では「特別支援」というと、教員がコントロールできないような、発達障害の診断がなされた子供に狭めて対象にしていますが、本来は、通常の授業からでは益を得ることができない子供のすべてを指します。

「通常の授業からは利益を得ることができない子供」という言い方からは、子供中心にみる発想がうかがえますが、日本では、教員が扱いづらい子供を特別支援学級に送っていますから、これは教員中心の見方です。

海外で生まれた様々な概念が、日本では表面的に受け取られ、相当に変化してしまっています。その変化は、単純に社会や風土が違うからというだけでなく、物事を分かりやすくして、理解したつもりになる傾向とも関連しているようです。

ECEを担当する教員は、それなりの資格を得ていなければなりません。アメリカでは、障害の種類ごとに、さらに障害の重症度によって、別々の資格が求められます。例えば、軽度のADHDの子供に対応するための資格と、重度のADHDの子供に対応する資格は異なります。

重度の自閉症を扱う資格は、さらに別のものです。発達障害の様相を知るために、まず参照されるのが、知能指数です。知能指数の考え方は、問題解決能力について、物理的に同年齢の子供の集団の平均値と比べるものです。平均値から大きく隔たった場合を非定型発達と見做すことにしました。

子供は、同年齢であっても、その知能には違いがあり、一定の分布を示します。発達を考えた場合、物理的な年齢が同じでも、知能には個人個人で差があります。

同年齢の子供の平均よりも知能が低い場合でも、下の年齢の子供と一緒に学ぶ仕組みがあれば、それほどの差を感じないかもしれません。

 

「発達障害」の診断は、本来子供が不利益を被らないためのもの

知能は、学力試験で高い点数を取ることができるかということではなく、人間が社会に適応するための能力を指します。まして、日本にあるような入学試験で高い点を取り入学できるかということではありません。

日本では、一律に定められた一つの能力で人間の価値が測られるようなところがありますから、「頭がいい」というときの意味合いが異なっています。子供の発達段階を調べて、最も相応しい教育を提供するための資料が知能指数であり、人間を格付けするためのものではないのです。

日本で物理的年齢を基準にして学年の所属を決める規則があると、子供の発達が考慮されません。同じ年齢の子供を「みんな同じ」と見做してグループ化し、そのグループに対して何らかの方針を作ることは、人間の発達に沿ってはいません。

アメリカでは、子供の発達の状況を見て入学時期を遅らせたり、小学校であっても、同じ学年に再度とどめるようなことは当たり前のことになっていて、そのことに疑問は持たれていません。

こうしたことが、発達障害を捉える上でも、一つの考え方になります。物理的な年齢だけを基準にして、「〇年生は、しかじかのことをするべき」という風に規則で定めて、その規則に囚われると、生きづらい子供をつくります。

アメリカでも、いわゆる小1プロブレムのような問題が生じます。キャリア教育でいう移行期の問題の一つです。主に分離不安といった心理的な問題で、子供の発達にも関わっています。これを解消するために、アメリカのほとんどの州では、幼稚園を義務教育とし、この期間を学校へ通うための準備期間にしています。

義務教育年限を固定し、それが規則だから、子供の全員が一定の年齢になったら学校へ通うといった「常識」が見直されない限り、こうした案は承認されません。常識や規則を固定しすぎることよりも、子供の発達を考える構えが必要です。

英語に「スローラーナー(slowlearner)」という表現があります。「学ぶのが遅い人」の意味です。否定的なニュアンスで用いられることもありますが、もとは、知能の低い人でも自分のペースで学べば良い、といった意味合いを込めて使われていました。

精神疾患や障害の診断基準の一つとして、アメリカ精神医学協会が作成した「DSM」(診断・統計マニュアル)が使われることがあります。「ADHD」のような診断名は、DSMによる診断体系の中に「ADHD」という分類項目があるということです。つまり、診断体系全体によって人間が把握され、そのうえでADHDのような診断がくだされます。診断名が診断体系から独立してあるわけではありません。

日本でありがちなことは、DSMというマニュアルに書かれた判断項目をみて、それらに当てはまると、その障害があるという風に解釈してしまうことです。診断名だけでその人をみるのでは、人間を人間全体として捉えていないことになります。

一般的によくあるように、人間に付与されたレッテルや肩書を聞いて、その人を理解したと思ってしまうことも同じです。その人の属性の一つを知っただけで、本当にその人を全体として理解することにはなりません。

「発達障害」の診断は、はじめは特定の子供が不利益を被ることがないようにするためにつくられたはずです。人間が自然にもっている特性ですから、人間が人間を「排除」するのではなく、いかに共生するかを考えなければならないのです。ところが、人間を受け入れる「包摂(インクルージョン)」ということがいわれても、現実には往々にして「排除(エクスクルージョン)」になってしまいます。

乱暴な言い方かもしれませんが、日本における、旧来の学校の見方には、本当の意味での「発達支援」がありません。子供に望ましくない行為があった時に、それが成長や発達の一つの過程であるとは見ず、あってはいけないこととして捉えられますから、子供にとっては失敗から学ぶことも難しくなります。

ヤヌス・コルチャックが示したような、失敗する権利を行使できないことになります。発達の様子が、他の多くの子供と異なる様相をみせるならば、その子供を別の教室に追いやり、同じ人間であるにもかかわらず、奇異な人間としてレッテルを貼って扱います。

発達障害の子供を単純に無能力と決めつけるのではなく、適材適所を考えると、社会に貢献するための能力がきちんと備わっていることが分かります。

 

不完全さを認めることがインクルージョンの出発点

日本でも、口先だけでは「適材適所」と言いますが、人間の違いを捉えた対応がなされているでしょうか。

日本で「インクルージョン」(インクルーシブ教育)と言うと、特別支援教育の対象となる子供を通常学級の子供を同じ場に置くことの意味になっています。単に一緒にすれば良いというような雰囲気があり、本来の意味が忘れられているところもあります。

障害があろうがなかろうが、全部の子供が、同じ量の幸せ感をもつようにすることが、インクルーシブ教育のねらいです。別の言い方をすると、どのような子供であっても、違いが弊害にならないようにすることで、公平な教育を受ける権利が損なわれないようにすることです。

障害が弊害になると、そのぶん幸せ感は薄くなります。ですから、その不利な状況を補うために、障害のある子供には、他の子供よりも多くの配慮をしなければなりません。それで対等に幸せを得ることができます。

譬えの話ですが、ある市で、市民全員に楽しい思いをしてもらうことをねらって、全員に一枚ずつ、公平に映画観賞券を配る企画をしたとします。これが、果たして「平等」になるでしょうか。市民の中には、映画が好きではない人もいるし、目の見えない人もいるし、耳の聞こえない人もいます。また、鑑賞券をもらっても、身体の具合が悪く映画館まで行くことができない人もいます。つまり、それぞれの人に「公平に」同じことをするのでは、平等にはならないのです。

「インクルージョン」と称して、障害のある子供を通常の教室に同席させ、一緒に勉強をしたとします。何の工夫もせずにそうした対応をした場合、平等な対応になるでしょうか。簡単に予測できることですが、特別支援教育の対象になる子供は、能力的に不利になることがあり、同じ勉強をしても、満足感を得ることができません。能力的に遅れた子供が、進んでいる子供の脚を引っ張ることにもなりますから、どの子供にとってもメリットがありません。

子供達が同じ場にいさえすればよいと考えて、子供達が一緒にゲームを楽しめばよいと考えた場合はどうなるでしょうか。この場合にも能力の差が明らかになるでしょう。特別支援教育の対象となる子供と一緒にゲームをすることを、他の子供達が「つまらない」と感じたり、本来は必要のないはずの手助けをする労力を強いられることになったりして、この場合にも、どの子供にとってもメリットはありません。

不完全さを認めることがインクルージョンの出発点になります。どのようにすれば、合理的配慮をすることができるでしょうか。それぞれの子供が、それぞれの立場で、どのようにしたら「つまらない」が解消されるかを考えればよいのです。

それを聞き合うことで、問題にどう向き合うかを考えます。正解があるわけではありません。誰にも答(answer)は分かりません。子供達の誰にも、そして教員にも答があるわけではありません。子供の集団や状況によって、答(solution)は違ってくるでしょう。

 

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