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デジタルデトックスは“反デジタル”? スマホとの関係を見つめ直す方法とは

森下彰大(一般社団法人日本デジタルデトックス協会理事)

2026年03月09日 公開

デジタルデトックスは“反デジタル”? スマホとの関係を見つめ直す方法とは

デジタル社会と呼ばれて久しい現代。テクノロジーなしでは成り立たない生活が当たり前になる一方で、スクリーンの前で過ごす時間は増え続け、デジタルデトックスの必要性も指摘されるようになりました。

では、デジタルデトックスとは単に"デジタルを断つこと"なのでしょうか。一般社団法人日本デジタルデトックス協会理事の森下彰大さんは、スマホが手放せない時代だからこそ、デジタルとの健全な距離感を考えることが重要だと説きます。

※本稿は森下彰大著『戦略的暇―人生を変える「新しい休み方」』(飛鳥新社)より一部抜粋・編集したものです。

 

私たちはすでにスマホと一体である

AbemaTVに出演された実業家の堀江貴文氏は「デジタルデトックス(DD)」と聞いて、「デジタルのない時代に戻るなんて、まっぴらごめんだよ!」とおっしゃいました。ええ、僕も同じ気持ちです。いつでも誰とでも繫がれる、そして世界中の情報にアクセスできるデジタル機器を手放すのは、僕だって「まっぴらごめん」です。

しかし、どうもDDという言葉を聞くと、人は「反デジタル」のコンセプトだと直感的に思うようです。あるいは、人によっては「人が主人であり、技術を従属させる」といったニュアンスでDDを語る人もいますが、これもバイアスがかかった見方です。

テクノロジーは人間の作り出したものだから人間が思うように使いこなせるという考え方は、「技術の道具説*」と呼ばれており、直感的にこのような価値観を抱くことには注意が必要です。なぜなら、人類が生み出したテクノロジーは人や社会のあり方を大きく変えうるからです。テクノロジーもまた、人を変化させているのです。

「スマホはヒトの一部」。DDの活動をしていることもあって、こう言うと驚かれることもあります。それでも、使う・使われるの関係ではすでにないのです。ここから少し、哲学の視点からデジタル機器と私たちの関係を覗き込んでみましょう。

哲学者のアンディ・クラークは、「Extended Mind(延長された心)」と呼ばれる理論を提唱したことで知られています。これは人の心が脳内の活動だけで完結するのではなく、身体や環境との相互作用によって成り立つとする考え方です。

2003年に彼が著した『生まれながらのサイボーグ』(春秋社)は、人と技術の関係について切り込んでおり、大きな気づきを与えてくれます 。同書は、衝撃的な一文から始まります。

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わたしの体は電子的処女である。わたしはシリコンチップも、網膜インプラントや内耳インプラントも、ペースメーカーも内蔵していない。メガネすら掛けてはいない(服は着ているが)。しかしわたしは、ゆっくりと着実に、サイボーグになりつつある。
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タイトル通り、私たち人間は生まれながらにしてサイボーグになっていく存在だとクラークは述べています。サイボーグと言うと、機械の体や脳内チップなど、そんなイメージを浮かべますよね。

しかしクラークはテクノロジーと人体が一体化していなくても、私たちはすでにサイボーグであると言っています。いったい、どういうことなのか。クラークは、猫のエピソードを交えて説明しています。

たとえば、猫の居場所がすぐにわかるようにGPSチップを猫の体内に埋め込んだとしましょう。猫の体はGPSと一体化していますが、猫の行動や意識に大きな変化は起こりません。

しかし、人がスマホを手にするとどうでしょうか。知らない場所を訪れるときにナビアプリを使ったり、遠く離れた人と連絡を取り合ったりと、これまでとはまったく違う認知をして、行動を取るようになります。そして、それらができることを前提に人や社会そのもののありようが変わっていきます。その変化の大きさについては、これまでに述べてきた通りです。

クラークがここで伝えようとしているのは、人は猫とは異なりテクノロジーを自分の一部として取り込み、能力を拡張させている点です。その意味では、人はすでに外部の力を使ってサイボーグ化しているのだと彼は説いています。

繰り返しますが、私たちはスマホを使う、スマホに使われるといった関係性で生きているのではありません。すでに私たちは「スマホと共にあり」、今後は「AIと共にある」のです。

ですから、私たちはテクノロジーとの関係を常に抱き合わせで考え、デジタル技術と共にある私たちが今どんな状態なのかを問いかけ、「依存」ではなく「共存」の状態でいられるよう、バランスを保つ必要があるのです。では、そのバランスをどのように保てば良いのか、次項で考えてみることにします。

*技術の道具説:技術哲学の世界において、テクノロジーは人間が目的達成のために使う道具にすぎず、私たちはそれを使いこなせる、使いこなすべきであるという見方のこと。直感的にはそのようにも思えますが、実際、ある技術が現れるとそれによって社会のありようは大きく変わってきました。
ですから、自分とは分離したただの道具としてデジタル技術を捉えるよりも、すでに社会に内包されていて、私たちは確かな影響を受けている、互いに相互変容していると考えるのが自然だと考えられています。

 

分水嶺を用いて考える

分水嶺のイメージ図

デジタル技術と今後も共にある私たちが、どのように健全なバランスを保っていくのか。そのことを考えるうえで大きなヒントになるのが、哲学者イヴァン・イリイチの教えです。

私たちは、「技術や生産性の向上」によって自身の生活の安全や幸福を得られると信じてきました。しかしイリイチは、産業社会に生きる私たちが効率性を求めるあまり、自立性を損ない、かえって不益が生み出される状況を「反生産性」という概念を用いて批判しました。ある技術や制度が本来の目的を達成する以上に、逆効果をもたらしてしまう状態のことです。

イリイチは「医原病」を提唱したことでも知られ、医療システムが拡大することで人々が過度に医療依存し、自らの健康管理能力を低下させていく状況を憂いていました。さらに病気や健康の定義が医療に委ねられることで、自らの人生や健康に対する主体性が失われるとも批判していました。

また、著書『脱学校の社会』(東京創元社)においては、教育が自然な学びのプロセスを妨げ、個人が本来持っている好奇心や学習意欲を阻害していると述べています。「便利への信仰」がもたらす弊害について、実に早くから注意喚起をしていた人物なのです。

インターネットが普及し、デジタル機器が利便化されるにつれて、これらのサービスの提供側が「便利とは何か」を定義するようになりました。そして、私たちは「便利でなければいけない」という強迫観念さえも植えつけられてしまっているのです。

インターネットは大量の情報にアクセスできる環境を与えてくれましたが、反対にジャンクな情報も溢れ、本当に自分が必要とする情報にアクセスすることが難しくなりました。

このようにインターネットやデジタル機器によって、必ずしも私たちの生活のすべてが生産性のあるものになったわけではありません。便利なスマホでついついSNSを眺めて、時間を溶かしてしまうのはその典型的な例です。

イリイチの展開する理論の中でも、「コンヴィヴィアリティ」(自立共生の意)は重要です。コンヴィヴィアリティとは、人々が単なる消費者としてではなく、自身の達成したい目的に対して、道具を選ぶ自由とも言い換えられます。

イリイチの研究で知られるデザイン・エンジニアの緒方壽人氏は著書『コンヴィヴィアル・テクノロジー』(ビー・エヌ・エヌ)において、イリイチの思想を端的に示しています。

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〈中略〉道具が人間の主体性を失わせることなくその能力や創造性を最大限にエンパワーしてくれる「コンヴィヴィアル」な道具となるのか、もしくは、人間を操作し、依存させ、隷属させるような支配的な道具になるのか、それを分けるものが「一つの分岐点」ではなく「二つの分水嶺」であるということである。
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デジタル技術との関係を二つの分水嶺の比喩で捉えることは、自分とテクノロジーとの関係に過不足がないかを探るうえで、有効です。

第一の分水嶺を下回れば、デジタル技術がないため(あるいは使いこなしていないため)に、大きな機会損失が生まれている可能性があります。反対に第二の分水嶺を上回ってしまえば、デジタル技術との関わり方が原因で、自らのウェルビーイングが損なわれているということです。

この二つの分水嶺のあいだでバランスを取り続けることこそがテクノロジーと共生している状態であり、コンヴィヴィアルな状態なのだとも言えます(上図)。

緒方氏はテクノロジーが進化し続ける今、私たちと技術が「コンヴィヴィアルな関係にあるかどうか」を問うために6つの問いを掲げています。私たちがテクノロジーとの関係を振り返るうえでも非常に有用な問いなので、ここでご紹介します。

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そのテクノロジーは、人間から自然環境の中で生きる力を奪っていないか?
そのテクノロジーは、他にかわるものがない独占をもたらし、人間を依存させていないか?
そのテクノロジーは、プログラム通りに人間を操作し、人間を思考停止させていないか?
そのテクノロジーは、操作する側とされる側という二極化と格差を生んでいないか?
そのテクノロジーは、すでにあるものの価値を過剰な速さでただ陳腐化させていないか?
そのテクノロジーに、わたしたちはフラストレーションや違和感を感じてはいないか?
―『コンヴィヴィアル・テクノロジー』
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このコンヴィヴィアリティの考え方が、DDの根幹にあります。緒方氏が指摘している通り、「分岐点(使うか・使わないか)」ではなく、「分水嶺(デジタルと共にある私たちが今どの状態にあるのか)」で考えることを大切にしています。そして、そのバランスは個々で異なるものです。

DDは最適なバランスを探るために一度すべてOFFにしてみる、そんな実験でもあります。

DDイベントに参加された方の多くは、「こんなにこのアプリを使う必要はなかった」「逆にこのアプリはないと不便だなと思った」など、スマホの中でも必要なアプリとそうでないアプリの見分けがつけやすくなると語っています。高速で回り続ける毎日の中で、なかなかこのような棚卸し作業をするのは難しいものです。

ですから、DDで作った余白で自分自身と対話をしながら、デジタル機器との最適な付き合い方を摑んでいくことをおすすめします。

プロフィール

森下彰大(もりした・しょうだい)

一般社団法人日本デジタルデトックス協会理事/講談社「クーリエ・ジャポン」編集者

1992 年、岐阜県養老町生まれ。中京大学国際英語学科を卒業。在学中にアメリカの大学に1 年間留学し、マーケティングと心理学を専攻。学生時代は音楽活動にものめり込む。その後、日本語教育や貿易業に携わる傍らでメディア向けの記事執筆を副業で始める。その後独立し、2019 年
にライティング・エージェント「ANCHOR」を立ち上げ、記事制作業を本格化。現在は「クーリエ・ジャポン」の編集者として、ウェルビーイングや企業文化の醸成を中心にリサーチ・取材・執筆活動を行う。日本デジタルデトックス協会では企業・教育機関向けの講義やデジタルデトックス(DD)体験イベントを提供する。
米留学中にDDが今後の「新しい休み方」になると直感し、実践と研究を開始する。しかし社会人になり自身がデジタル疲れに悩まされるように。体調の悪化から危機感を持ち、会社員生活を続けながら小規模なDDイベントを始める。その過程で、「今の私たちに足りていないのは、余白(一時休止)ではないか」と考えるようになり、戦略的に余白―暇を作り出すための方法を模索。多忙な現代社会の中で人生を変えるための「戦略的“ 暇”」を提唱している。
2020年より日本初となるDDを専門的に学び実践する「デジタルデトックス・アドバイザー® 養成講座」を開講。のべ100名以上の修了生を輩出している(2025 年時点)。

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