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吾輩はウツである―作家・夏目漱石 誕生異聞

2013年04月05日 公開

長尾剛(作家)

夏目漱石

 

歴史的事実をモチーフに、不世出の文豪が誕生するまでを描く長編小説

 『吾輩はウツである』は夏目漱石を長年にわたって研究し続けてきた著者・長尾剛氏が、歴史的事実をモチーフに、不世出の文豪が誕生するまでをドラマチックに描く、異色の長編小説です。

 明治36年(1903)4月、小泉八雲が辞めさせられたことで学生たちの不満うずまく帝大に、夏目金之助(のちの漱石)が講師として赴任する。不穏な空気の中、学生たちの冷たい視線に晒される金之助は、毎日、不満と苛立ちを抱えながら教壇に立っていた。さらに、失恋で人生をはかなむ学生・藤村操が目の前に現れ、金之助の気持ちはますます不安定になっていく。
 そんなとき、一匹の小さな黒猫が夏目家に迷い込んだ。心を病み始めた金之助は、その黒猫と会話をし始める。しかし、その黒猫と会話ができるのは金之助だけだった。
 一方、病ゆえに突如として怒りを暴発させるようになった金之助に対し、妻・鏡子は一念発起。金之助の病を治すべく、ある行動を起こしたのだが……。
 では、その冒頭をご覧ください。

 

【序】

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたか頓と見當がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る。

 「どうだ。よい出だしだろう」
 しなびた借家の縁側に、あぐらをかいて座った一人の中年男が、満足げにこうつぶやいた。
 男の手には、一冊の雑誌が握られている。
 もっとも、傍らには人の姿は見えない。

 明治三十六年(一九〇三)、秋。
 東京は本郷区駒込千駄木。こんにちの文京区に当たる。帝都・東京というには、ややうらぶれた閑静な住宅街の一角である。
 男の目の前には、貧相な垣根で囲われた小さな庭があるばかりだ。女郎花の花が、風に少し揺れた。
 「『吾輩は』というところが、愉快じゃないか。猫の分際で、乙に気取っている。アンビバレンツの滑稽だ」
 男はさも愉快そうに、クックッと押し殺した笑いをもらした。
 「フン」
 答える声がした。もっとも、傍らには人の姿は見えない。
 「吾輩は別段、気取った覚えなんぞない。吾輩が吾輩を吾輩と呼んで、なにがおかしいものか。そんな瑣末なことでケラケラ笑えるおまえさんのほうが、おめでたいのだ」
 この答に、男はむっとした。おやと思う間に、顔を赤らめた。癇癪持ちのようである。
 「僕は、ケラケラなど笑っていない。少し笑っただけだ。だいたい吾輩なんて、偉そうにふん反り返った資産家なんぞが使う呼称だ。人として下卑た連中だ」
 「吾輩は人じゃない」
 「そういうのをヘラズグチというのだ」
 男はフンと鼻息をもらすと、プイと横を向いた。しかしながら、赤らんだ顔がさらに赤くなることはなかった。少々おとなげないと、自ら悟ったのだろう。
 「だがマァ、悪い出だしじゃない。文章の才を認めるのは、やぶさかではない」
 「だろうっ! 我ながら傑作だ。滑稽にして深遠だ。文学かくあるべし、だ」
 急に男はご機嫌になった。目を細めて、腕を足下のあたりに伸ばすと、ぐりぐりと相手の頭をなでた。
 「あなたっ」
 と、その時、後ろから声がした。
 男の妻である。少々太めの体型ではあるが、艶のある頬と、くりっとした目の愛くるしい女だ。歳の頃は、二十代半ばといったところだろう。
 「また猫を相手に、ぶつぶつつぶやいて……。ご近所の子供に、また『猫と喋る先生』って、からかわれますわよ」
 妻は、ちょっとロをとがらせた。
 男は目を落とすと、傍らに寝そべる猫を見た。猫も、男の顔を見ているようである。男はむしろ機嫌の良さそうな様子で、ニヤリと笑い、妻に答えた。
 「言わせておけばいいさ。本当のことなんだから」
 「ニャー」
 猫が同意を示すかのように、一声挙げた。
 この男、夏目漱石である。
 彼がまだ無名の素人作家に過ぎなかった頃の話である。

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