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舞鶴に桜を植えた米兵の正体 真珠湾で爆撃に遭い、“スパイ”と罵られた悲劇の記録

細川呉港

2026年04月08日 公開 2026年04月09日 更新

舞鶴に桜を植えた米兵の正体 真珠湾で爆撃に遭い、“スパイ”と罵られた悲劇の記録

シベリアからの引き揚げ港として知られる舞鶴にある共楽公園には、かつて進駐軍の日系アメリカ兵が植えた「アロハ桜」がある。戦後の貧しい時代に植えられた桜は、時を経て見事な花を咲かせ、人々にその存在を知らせた。いったい誰が、どのような思いで植えたのか。その主が、プランテーションで働くためにハワイに移り住んだ日系二世、フジオ高木だ。

山口県の岩国にルーツを持ち、15歳で家族が帰国した後も独りハワイで育った彼は、ハウスボーイをしながら真珠湾の浚渫船にて整備工として働いていた。しかし1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃が彼の運命を大きく変えることになるのだ。

※本稿は、細川呉港著『舞鶴に散る桜』(飛鳥新社)の内容を一部抜粋・編集したものです。

 

真珠湾攻撃の日

パールハーバー詳細地図
真珠湾の地図。三つの入り江の真ん中の中湾に落ちた日本の艦上爆撃機。その入口に高木の乗った浚渫船がいた。アメリカ人の上官と高木は、救命ボートに乗って駆けつけるが、パイロットは自決。高木は、ほかに日本の潜水艦も見つける。

ついにその日がやってくる。1941年(昭和16年)12月7日朝、その真珠湾に、突如として日本軍が空からの攻撃を始めた。湾内の艦船は、日本の攻撃機から投下される爆弾や魚雷による轟音とともに次々と炎上した。

いくつかの戦艦が火の玉となり、炎が黒煙とともに空に舞い上がった。基地内は大騒ぎとなった。フジオ高木は目の前に起こる大爆発を前に、この現実をどう捉えていいか分からなかった。

多くのアメリカ兵もみんな仰天したと言う。まさに青天の霹靂だった。頭が混乱した。日本人である自分が住むハワイに、祖国日本が爆弾を投下しているのだ―。信じられない。

フジオ高木は、この時、いくつかある真珠湾の入り江の、中湾と呼ばれている湾の入り口にいた。アメリカ軍から請け負った浚渫船に乗っていた。この時のようすを、その後、多くの知人が高木から聞いているが、パールハーバーから45年後、『ホノルル・アドバタイザー』(Honolulu Advertiser)紙に、「真珠湾攻撃―ほろ苦い思い出」(Pearl Attack : Bittersweet Memories)という記事を書いたマーク・マツナガは、高木に会って詳細にインタビューをしている。

その朝、高木は浚渫船「マーシャル・ハリス」に乗り、機械工として仕事をしていた。おそらく船底か作業室にいたのだろう。旋盤をいじっていたらしい。かなり忙しく仕事に集中していた。

その時、チーフ・エンジニアのチャーリーが飛び込んで来て叫んだ。「War! war! Japs attacking! Japs attacking!(戦争だ、戦争だ、ジャップが攻撃してきた)」。高木はそんなバカな話がと、とっさに思った。急いで旋盤を止めデッキに出た。

ちょうど南の方、ワイピオ半島の上を、攻撃機の編隊が低く飛んで来るのが目に飛び込んできた。しかも一機は機体と翼の下が火の玉となっていた。それを見てフジオは初めてこれは戦争だと思った。彼は再び仕事場に戻り、手短に工具を片付けた。自分の大事な工具一式である。

キャプテンから、ブリッジに双眼鏡を持ってくるように命令が入った。高木がデッキに上がった時、東南の陸地側のヒッカム基地から煙が上っているのが見えた。その方向から魚雷が何本かフォード島の反対側に停泊しているたくさんの戦艦に向かって飛んで行った。

そこは、アメリカ海軍の主だった戦艦や駆逐艦がずらりと並んで停泊しているところである。フォード島は、山のない低い平らな島だが、高木のいた中湾からは、隊列するアメリカの戦艦は見えなかったけれど、低い島の木々の上に、戦艦のマストがみんな見えた。

その戦艦が、日本軍の爆撃により、大破し、黒煙と火柱を上げて、マストや船の上部構造が、飛び散るさまがよく見えた。上空高いところから急降下爆撃機がハラワ・バレイの方向からも現れた。多くの戦艦が炎を上げ、さまざまな姿勢で沈んでいった。まるでアメリカの戦艦は生贄のようであった。

高木は、数百ヤード先に浮上している潜水艦を見つけた。高木は双眼鏡で確かめた。すると近くにいた駆逐艦が一斉に射撃を始めた。その駆逐艦は東湾から来たモナハンという船で、しかも体当たりで潜水艦にぶつかっていった。

その時になって初めて高木は双眼鏡をキャプテンに渡したのである。その時、大きな4発エンジンの航空機がワイピオ半島を越えてくるのが見えた。極めて低く飛んできて、まるでサトウキビ畑の穂を撫でるようだった。高木は最初、チャイナ・クリッパーの飛行艇かと思ったが、後で考えるとB17爆撃機だった。ちょうどアメリカの西海岸からハワイに飛んできて、日本軍の攻撃の最中に到着したのだった。

高木が浚渫船の船尾に回った時、彼の前方に日本の攻撃機が低く飛んでいるのが見えた。それは次第に高度を下げ、おおよそ200ヤード先で不時着水した。かなりの衝撃だったろう。高木は、ふたりの一等航海士と他の仲間とすぐさま多目的ボートに乗って日本機に向かった。

飛行機はまもなく沈没し、パイロットが海の上で上下に揺れていた。高木は、ボートの先でうつぶせになり、パイロットを捕まえようとした。あと数フィートというところで、パイロットは水面から消えてしまった。高木は、彼は自殺したのだと思った。透明な海水が血で染まっていたからである。高木はかろうじて、男のライフ・ジャケットと、帽子とゴーグルを回収した。

その男の飛行服と帽子とゴーグルを、浚渫船「マーシャル・ハリス」に持ち帰ると、仲間たちは最初は面白がって日本のパイロットの持ち物を見ていたが、ジャケットに名札のようなものが縫い付けてあるのを見て、高木にこの文字を読めと言った。

高木はその漢字が読めなかった。するとひとりの仲間が、「お前は日本のスパイか。分かっているのに言わないのだろう」、と言った。「スパイだ。スパイだ」。周りのみんなもそう言い始めた。そして胸ぐらをつかまれ、首を絞められた。「ジャップ、白状しろ」。

デッキでいさかいが起きているのに気づき、キャプテンが駆け付けた。見るとA45という銃を持っていた。キャプテンは言った。「お前は船から降りろ」。それで船は急遽そこから一番近い岸ベであるクリッパードックの傍に向かい高木は船から降ろされたのである。

それはパールシティから続く、長く半島のように突き出た先っぽ、半島の西側の岸であった。高木は、そこでひとりになった。あたりには誰もいなかった。周りは田んぼばかりであった。

高木は北に向かって歩き出した。すると山側の方から、日本のゼロ戦が近づいてきた。乾いた音とともに機銃掃射の弾がこちらに向かってくるのが見えた。「まるで映画のようであった」と高木は言っている。最後の瞬間、高木は傍の流れの激しい排水溝に飛び込んだ。

高木は後に言っている。日本の戦闘機は、決して市民を銃撃しないと本に書いてあったのに。しかも日本人の私を撃つとは。その後、高木はひとりで歩いてオアフ島の反対側、北の海岸にあるワイアルアまで歩いて帰ったのだと言う。

おそらく30数マイルはあろう。キロにしても40キロ以上。途中ワヒアワの高台もある。ずっと歩き続けたとしても、夜中まで、あるいは夜半までかかったと思われる。ひとりぼっちの暗い夜道。いや逃避行であった。サトウキビ畑とパイナップルの畑が延々と続いていた。

 

日系人たちの恐怖

8時間、あるいは途中休んだとすると、10時間以上歩いたかもしれない。精神的にもかなりショックを受け、肉体的にも疲労困憊したのは言うまでもない。

真珠湾攻撃の後、白人たちの日本人に対する憎悪は計り知れなかった。これからハワイの日本人はどんなひどい目に逢うのか、それは若い高木にとっては強烈な恐怖感につながった。その晩、高木は恐ろしくて眠れなかったと言う。後で分かったことだが、ワイアルアの日本人の中には、山の洞窟に隠れた人もいると。

実際、その日のうちに、日本人の主だった地方議員、日本人会の各地の責任者、実業家、お寺の僧侶、教員といった人たちは、すぐにFBIに連行されている。それはオアフ島だけでなく、ビッグアイランドと呼ばれるハワイ島やほかの島でも同じように日本人が収監されたのである。すでにそういった「要注意人物」名簿が日頃から作られていたことになる。

一週間もしない間に、各家の天皇陛下や皇室の肖像画は降ろすように通達された。日本語の新聞は休刊となり、またその後、何年間にもわたって日本色が廃止された。新聞のタイトルを日本語から英語に変えた新聞もある。ラジオや新聞も読めなくなった日系人の家では、日本からの短波放送の聞けるラジオを購入した者もいた。

連行された人間は、一様に尋問を受けた。そして最後に「アメリカと日本が戦争をして、お前はどちらが勝ったらいいと思うか」と聞かれた。隠れキリシタンではないが一種の「踏み絵」であった。日本から渡ってきた多くの一世たちは、返答に困った。日本が勝ったらいいと言ってもまずいし、アメリカが勝つというのも自分の心に正直ではない。それで中には、「両方が勝って、戦争が終わったらいい」と言った人もいる。そう言った人はみんな連行されたという。

次の日、高木は出勤しなかった。夜中まで歩いて疲れていたせいもあった。宿のゴッドフリー夫人が、高木の真珠湾での経験したことをゆっくり聞いてくれ、そして高木にこう言った。「もし仲間があなたのことをスパイだと言うのなら、逆にあなたは明日職場に出勤するべきでしょう。そうすればみんなは、あなたのことをスパイだと思わない」。

翌日、高木がおそるおそる出勤すると、仲間はまだ怒っていて、さらに「ジャップ、ジャップ」と口汚く罵倒され、銃を突きつけられた。そして、ついに船長から正式に解雇を言い渡され、彼は再び職場から追い出された。彼は最後に自分の大切にしている工作道具一式を返してくれるよう訴えたが、それもかなわなかった。高木はこれからどうしていいか分からないほど悲しかった。

ところが数日後、(職場の者から)高木に連絡があり、ケワロ湾まで降りて来るように言われた。そして、大事な自分の工具一式を返された。高木はほっとした。それどころか、ありがたいと思った。これがあればまたどこかで、機械工として働けるからだ。アメリカも捨てたもんじゃない、そう思ったと言う。

数週間後、高木は、今度はウィーラー空軍基地で機械工として働くようになった。機械工は人手不足で、結構受け入れられたのである。そこの将校たちはとても親切で、高木を敵としては扱わず、働きやすい環境だった。高木はいつまでもその上官の将校たちの名前を忘れなかったという。

彼はその後、軍隊に志願した。しかし、日本人ということで入隊を拒否された。彼は仕事を辞め、今度はワヒアワのUSスチールのエンジニアリング部門に就職した。親方はワヒアワの人だった。あまり居心地はよくなかったが、給料はよかった。

しかし、すべての日系人は「危険人物」とされ、みんな黒いバッジを付けさせられた。そのバッジを付けている者は、島の海岸には近づいてはいけない、また会社の重要な会議にも参加できなかった。あくまで敵性人物だからであった。海岸に近づけないというのは、いつまた日本軍が攻めてきて、上陸するかも分からないからであった。日本人は日本軍の手引きをする可能性があった。

1944年の春になり、高木は再び軍に志願した。後にヨーロッパ戦線で名を挙げた有名な第100歩兵大隊である。しかし、今度も入隊はかなわなかった。というのは彼の機械工としての専門職の腕を買われ、軍隊に入るより、その方がアメリカのためになるとして入隊はできなかったのである。

しかし彼はあきらめなかった。今度はホノルルに行き、「日系二世の情報部隊」として兵を募集していたのに応募、テストを受けた。しかしこれも落ちてしまった。だが、担当の将校は高木に解答のコピーをくれながら、勉強して再度トライするように促した。そして2回目に受かった。

こうして高木が入隊することになった部隊が、日系人による「情報部隊MIS(Military Intelligence Service)」である。日本軍で言えば、特務機関で、アメリカ軍が作った「日本語のわかる情報部隊」である。

1943年、高木は25歳でアメリカ軍のMISに入隊した。自分はあくまでアメリカ人だという気持ちは変わらなかった。これは日本にいる日本人には理解できないが、ハワイで生活している多くの日系人、特にハワイで生まれた二世の多くはそう思った。アメリカ本土の日系人もそう考えた人が多い。できるだけアメリカ人に近づきたいと―。

多くの日系人が、アメリカに忠誠を示すことによって、ハワイや、アメリカ本土で「生きていく道」を考えたのである。収容所に入るより軍隊に入った方がいいという人も大勢いた。「生みの親より、育ての親。しかし、この東洋人の顔は替えられない」と、そういう人もいた。

それに高木は、日本のゼロ戦から機銃掃射を浴びて、間一髪で助かったのだ。

プロフィール

細川呉港(ほそかわ・ごこう)

広島県呉市出身。1944年(昭和19年)生まれ。出版社をへて現在フリー。現代中国、満洲、モンゴル研究は長い。東洋文化研究会の運営は今年で35年目になる。歴史に生きた無名の人物を掘り起こす作業を続けている。
著書に『満ちてくる湖』平河出版、『ノモンハンの地平』光人社、『日本人は鰯の群れ』光人社、『草原のラーゲリ』文藝春秋社。中文版、モンゴル縦文字版、キリル文字版の翻訳書がある。『紫の花伝書』集広舎、『桜旅』愛育出版、『花人情(はなひとなさけ)』愛育出版、近刊『柔術の遺恨』、などのほかに、編著として『台湾万葉集』『バイコフの森』『孔子画伝』『西チベット ピアンとトンガの仏教遺跡』いずれも集英社、など。

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