上司のパワハラによって「統合失調症」を発症した野村春香(仮名)さん。クリニックに通院しながらデイケアに参加することで日常を取り戻しつつありましたが、出産を機に統合失調症が再発したそうです。
今では平穏な暮らしをしているという春香さんは、どのようにして立ち直れたのか――クリニック理事長である広岡清伸さんに話を伺いました。
※本稿は、広岡清伸著『ごめんなさい、もうこれ以上頑張れません』(アスコム)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
※本記事は特定の治療法を推奨するものではありません。実際の治療・服薬に関するご判断は、必ず主治医または専門医にご相談ください。
ライフステージの変化で症状が再発
初診から1年後、春香さんは、自分で探した職場で働き始めました。大学を卒業するときに入社したかった食品メーカーではありませんでしたが、入社面接のときの担当者や会社の雰囲気に安心感があったのが理由だそうです。数年後には、その会社で後に夫となる人と出会うことになります。「先生も来てくださいね」と招待された結婚式に、わたしも参加しました。
心の病は長期的に診ていくケースが多く、患者さんとは長いお付き合いになることがよくありますが、こういううれしい出来事は何度あっても心が温かくなります。春香さんに「人を信じられる」感覚が戻ったことがうれしかったですね。これで、社会への不信や被害的思考も薄れていくことになるでしょう。
初診から6年目のことでした。3カ月ぶりに診察室を訪れた春香さんから、またもうれしい報告がありました。
広岡「状態は変わらず安定しているようですね」
春香「先生に相談があります」
広岡「えっ、どうされました」
春香「実は、妊娠しました。子どもができたんです」
広岡「おめでとう。よかったじゃない」
春香「それで相談なのですが、薬を飲み続けるのはよくないですよね。わたし、健康な子を産んで、母乳で育てたいんです」
広岡「それでは、しばらく薬を飲むのは中断しましょう。安定しているようですからね。元気な赤ちゃんが生まれるといいですね」
春香「ありがとうございます」
無事に出産し、病院から退院した日の夜、春香さん、ご主人、お母さんの3人で祝杯をあげたそうです。グラスの中は麦茶だったようですが、子どものこれからの話で盛り上がったと言っていました。
ところが、産褥期(出産後の体が元の状態に戻るまでの期間。およそ6〜8週間といわれる)に入った春香さんの状態が悪くなります。産褥期は再発リスクが高い時期で、春香さんにも統合失調症の症状が現れるようになったのです。
春香さんは赤ちゃんの泣き声に過敏に反応するようになりました。夜中の授乳が続き、眠りは細切れになり、日中もぼんやりと意識が遠のく瞬間があったといいます。
ある夜、赤ちゃんが泣き止まない時間が続いたとき、春香さんは急に震え出し、ご主人にしがみつくようにしてこう言ったそうです。
「この子を守らなくちゃいけない」
翌朝、母親が様子を見に行くと、春香さんは座ったまま赤ちゃんを抱きしめ、怯えた目で部屋の隅をにらんでいました。「誰かが赤ちゃんを連れて行こうとしている」と繰り返したといいます。
この頃には、睡眠不足と産後のホルモン変動が重なり、以前の"替え玉妄想"に似た恐怖感が再び芽生え始めていました。家族が傍にいても、安心感が十分に届かなくなっていたのです。春香さんは、クリニックへ行くことにも抵抗したといいます。
春香「広岡先生を信じられない。広岡クリニックには行きたくない」
母親「広岡先生を信じないで誰を信じるの。行きましょう」
お母さんと一緒にクリニックを訪れた春香さんは、すごく疲れた顔をしていました。
春香「怖いんです。眠れません。助けてください。薬を飲みます」
広岡「大丈夫ですよ、春香さん。また、薬を飲みましょうね。前のようにすぐに落ち着いてきますから」
その日から、春香さんは抗精神病薬の服用を再開しました。初診の頃から長い時間をかけて築いてきた信頼関係があったからこその治療再開です。
服薬を再開した春香さんの症状はすぐに安定してきました。一緒に住んでいたお母さんとご主人のサポートがあったことも、大きな要因です。ご主人は、真夜中に眠れない春香さんに寄り添い、肩を抱きながら「大丈夫だよ」と声をかけ続けたそうです。そうした日々が、夫婦の絆をいっそう強めたのは言うまでもありません。
それでも生きていいんだよ
発症から25年以上が経過しました。春香さんは服薬を続けつつ、平穏で安定した生活を送っています。幻覚・妄想は完全に消失。温かな家庭を築き、教育費のためにパート勤務を続け、夫婦で支え合いながら子どもの成長を楽しんでいます。お嬢さんは明るく思いやりのある性格で、高校生の頃から看護師を志し、念願の看護大学に入学しました。
入学式の日、春香さんは少し緊張した面持ちで娘の背中に手を添えていました。白い壁に花束の香りが漂う式場で、娘の手が小さく震えるのを見たとき、かつて、お母さんに支えられた日を思い出したといいます。
「あなたなら大丈夫」
今度は春香さんが、かつてのお母さんの言葉をそのまま娘へと伝えました。その話を聞いたとき、わたしは、母から娘へ、そして娘から次の世代へと、静かな絆のバトンが渡されたように感じられました。現在も、ご主人、お嬢さん、お母さんが、ときに不安定になる春香さんを支えています。それでも、外来で春香さんは穏やかに語ります。
春香「先生、あのときは本当に真っ暗でした。でも、あの闇の中で生きてこられたから、いまの自分がある気がします」
25年前に「本当のお母さんではない」と恐れた春香さんは、いまや家族をつなぐ中心的存在です。世代は巡り、支え合いの輪は静かに続いています。
統合失調症の人たちが聞く幻の声は、たいてい厳しく、冷たく、時に残酷です。「おまえはダメだ」「消えてしまえ」......その声は、社会の中で生きる誰もが一度は浴びたことがある否定や嘲笑が凝縮された残響なのかもしれません。しかし、わたしたちの心には、どれだけ深く傷ついても、その声を打ち消そうとするもうひとつの声を聞く力が残っています。
「それでも生きていいんだよ」
「一緒にいるよ」
春香さんの場合なら、お母さんやお父さんのまなざしや、デイケアでの笑い声の中から聞こえてくるものです。それが、外の世界にある優しさです。わたしが行っている治療は、この"優しい声"を再び聞き取る旅だと言っていいでしょう。
薬が脳の嵐を鎮め、安心できる人々とのかかわりが、心の奥で閉ざされていたドアを少しずつ開いていく。幻聴の中で荒れ果てた世界に、ほんの一瞬、誰かの微笑みが差し込むとき、その瞬間こそ、現実が再び温度を取り戻すときです。
統合失調症とは、絶望の病ではありません。それは、人間の心が不条理な世界の中でもなお、他者を求めようとする証でもあります。闇の中で聞こえてくる優しい声は、「あなたはここにいていい」と告げています。わたしたちは、その声を見失わない限り、何度でも、現実の光の中に立ち戻ることができます。








