「まず痩せろ」に反発した私が、自分の意思で5kg落とした理由
2026年10月06日 公開
「世の中、結局顔なの?」外見で勝手にレッテルを貼ってくる世間の目。けれど、誰かに言われたからではなく「自分が変わりたいから変わる」—。ルッキズムのモヤモヤを吹き飛ばす、自分軸を取り戻すためのエッセイです。
※本稿は、曽和美佑著『世の中、顔か?』(クロスメディア・パブリッシング)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
無意識のうちに、他者の声が自分の声に
「他人の目」で作られたアイデンティティ
私たち人間は、「自分」という存在を他者との関わりの中で初めて認識し、自分を形成していく。周りを見て自分を知ることは、ある意味では、ごく自然なことだ。
しかし、いつの間か私たちはそれを超えて、他者の評価や意見によって自分の存在価値を確認し、証明しようとしている。
「細いこと」「可愛いこと」「誰かに選ばれること」
自分自身の内側から溢れ出るものではなく、他人の視線や評価によって今の自分を作り変える。
それによって、自分のアイデンティティが成り立ってしまっている。
私たちは常に人と比べ、その違いを個性だと思い込む。「自分らしさ」だと認識する。
ついには「幸せかどうか」さえも、他人と比較して認識しようとしてしまっている。
あの子はこれを持っている、私は持っていない。
あの子は結婚している、私はしていない。
あの子は旅行に行っている、私は行けていない。
あの子は誰かに愛されている、私は愛されていない。
あの子よりは幸せ、あの子よりは不幸。
誰かと比較しなければ、自分の幸せが何なのかがわからなくなってしまっている。
目に見えてわかる幸せは安心で、見えない幸せは不安。
そういう価値観で生きることで、失われるものがある。
比較することで失われていった、本来感じるはずの幸せや嬉しさは、一体どこにいったのだろう。そんなことには興味も示さない。
自分の軸を持とう
私たちは、もっと「自分の本質」を知るべきだと思う。
他人の声で自分を満たそうとすればするほど、本来自分は何が好きで、何が嫌いで、何に傷つき、何が心地いいのかを忘れてしまうから。
他者からの承認を軸に生き、他人と比較して「私は幸せなんだ」と錯覚し、誰かに承認されたい、愛されたいと、嘆き続ける。
しかし、断言する。誰かに何かをしてもらうことでしか自分を承認できないのなら、いつまで経っても心が満たされることはないだろう。
自分の軸を持たないと、いつの間にか他者の人生を生きることになる。
自分の軸を持つとは、自分にとって何が幸せで、何が嬉しいのかという基準を、自分自身でしっかり理解することだ。
私たちは、私たち自身の手で自分を満たしていける。
何が好きで、悲しいときはどうすれば回復できるのか。
自分のことをちゃんと知っていたら、誰かからの声や承認など、本当は必要ないのだ。
もし、「自分は何が好きか」「何が楽しいか」がわからないのであれば、まずは「心地よくいられる自分」はどんな自分なのかを探ってみてほしい。
誰かがあなたに「努力すること」を求め、それを強要してはいないだろうか。
私は私として、あなたはあなたとして、他者やネットのノイズを介入させず、存在できているだろうか。
一度、携帯の電源を切り、空白の中で考え、自分に改めて問いかけてみてほしい。
「他人の視点」か「自分の視点」か
「人がどう思うか」は自分の問題ではない
昔、とあるアーティストさんの音楽収録に参加したことがある。
ファンなら誰でも応募できるもので、運よく抽選に当たった私は、いつも通りの大好きな格好をして、ドキドキしながら向かった。
けれどその時、そのアーティストさんから、大勢の人の前でこう声をかけられた。
「目立ちたいからその格好で着たの?」心底悲しかった。
私はただ、自分が好きな服を着ているだけだったのに。
少し服装が派手なだけで「目立ちたがり」に思われるということを、その方は私に教えてくれた。
発信活動を始めてから、私は他にも多くのことを知った。
歯並びが悪いと「家庭環境が悪い」と言われること。
太っていると「自己管理ができていない」と言われること。
目が一重だと「可哀想」と言われ、派手な髪色でミニスカートを履いていると「自分を持っているね」と言われること。
なぜ、見た目という断片的な情報が、その人の背景や人格にまで結びついてしまうのか。
全てが疑問だらけだった。
見た目だけでその人を「こうだ」と決めつけるその浅はかさを、疑うことはないのだろうか。
けれど、それらはあくまで「その人の意見」でしかない。
人がどう思うかなんて、私には変えられないし、そもそも私の問題ではない。
私はいい意味でも悪い意味でも、人の話を聞いていない。もはや、人がどう思うかなんて、どうでもいいのだ。
知らない誰かに何も言われないための努力など、私にはめんどくさい。
私がそのままの姿で生きることは、許されないのか。
私たちは、世間の言う「可愛い」にならなくたっていいし、誰かに認められる「すごい人」にならなくたっていいのに。
「私を私として生きさせて」と願うことは、そんなにわがままなことなのだろうか。
もちろん、痩せたら「可愛い」と言われる機会が増えるのは事実だ。
誰だって、「綺麗な私を見てみたい」「知りたい」と思うのは自然な欲求だ。
私は、ルッキズム社会に対して問題提起をしながらも、美容文化に積極的に参加している。
容姿を変えるための努力は、決して悪いことなんかじゃない。
私も結婚式前なら、ダイエットだってすると思う。
一昨年、ウェディング雑誌『ゼクシィ』のモデルをした。
撮影前には、体重を5㎏落とした。高校生の頃から70㎏あった体重は、何を言われてもずっと変わらなかったのに。
その仕事が決まってから、毎日1万歩以上歩き、運動した。
周りからどれだけ「まず痩せろ」と言われても痩せなかった私は、ウェディングの撮影で新しい自分を見たくなり、体重を減らす努力をした。
肯定から始まる変化
「そのままでいい」と言い続けている人間がダイエットをするなんて、「矛盾している」と感じる人もいるかもしれない。
けれど私は、誰かに「痩せて」と求められたわけでも、「結婚式のモデルだから痩せなければならない」と強要されたわけでもない。
自分の意思で、自分が「痩せよう」と思ったから、容姿を変える努力をした。
もちろん、太っている自分だって、十分にいいと思っている。
私にとって、「そのままでいい」とは、「今の自分を変えてはいけない」という意味ではない。
「現在の自分の姿を否定したり、自分自身を悪く言ったりしない」という意味だ。
自分を肯定できるようになると、不思議と物事の見え方がガラリと変わる。
「否定から始まる変化」は苦しいが、「肯定から始まる変化」はちっとも苦しくない。
体型や顔が変わっても変わらなくても、私自身はそのままである。
大切なのは、「どちらを選ぶか」ではなく、「自分の意思で選べているか」なのだ。









