「あんなにしてあげたのに......」と、不誠実な人に対して怒りや恨みを抱え続けていないでしょうか。
ずるい人を恨み続けることは、あなたが費やした時間やお金、そしてエネルギーをすべて無駄にし、自身の成長を止めてしまうことになります。
本記事では、過酷な逆境を乗り越えた少女シーボンの「やり返せ(You can fight back.)」という言葉の本質をひも解き、他人に振り回される「反応的な生き方」から、自らよい人生を切り開く「能動的な生き方」へとシフトするための心理学的なアプローチを解説します。
※本稿は、加藤諦三著『「なんとなく不安」が消える本』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。
ファイティング・スピリットこそ「よい人生」のカギ
弱い人、つまり愛情飢餓感の強い人は、すぐに相手を恨む。そして相手を恨むことで、今までの自分の苦労を水の泡にしてしまう。
こういう人たちは、自分の人生は困難に満ちていると思っている。
それは間違いである。
自分の弱さが困難を招き、自分で自分の首をしめて「苦しい、苦しい」と言っているに過ぎない。
直面すべき困難とは、自分の内なる愛情飢餓感である。
人を恨んでいる人に必要なのは何よりも戦う心、ファイティング・スピリットである。
何よりも、レジリエンスのある人の心に学ばなければならない。ファイティング・スピリットを育成しなければならない。
自動車にたとえれば、エンジンが故障しているのである。エンジンの故障がすなわちファイティング・スピリットの欠如である。
小さい頃から虐待に耐えて立ち上がった少女シーボンの言葉がある。
You can fight back.(やり返せ)。
ずるい人は、シーボンのような人には近寄らない。
母親からいつも拒絶され、「お前は腐っている、馬鹿だ」と言われても、母親の言葉を信じなかったシーボンなら、そんなずるい人に迎合してお金を出さない。質の悪い人に騙されない。
シーボンなら、ずるい人が寄ってきても「こんな人たちに気に入られても嬉しくない」と思ったであろう。迎合しなかったろう。
こういうずるい人たちに次々にかかわってしまう「私」に問題がある。
長年にわたって騙され続けてきた人たちは、自分の弱点に気がついていない。いつも人を恨んでいる人たちは、自分の弱点に気がついていない。
いいように人から利用され続けてきた人たち、苛められ続けてきた人たち、そういう人に必要なのは、シーボンの言葉である。
You can fight back.
さらにもう一つ、次の言葉が必要である。同じくシーボンの言ったことである。
The resilient want a good life.(よい人生を望む)。
よい人生を望むなら、ずるい人を拒絶することである。善人の仮面を被ったずるい人を拒絶することなしに、死ぬほど努力しても意味はない。
相手が見えないから自分の弱さも分からない
ずるい人も、恨まれていると分かれば、それまでは心の底で少しは持っていた「申し訳ないなあ」という感情さえ、跡形もなく消える。
こちらが相手を恨んでしまえば、そのずるい人と同じレベルになってしまう。
その時に「自分はこれだけの心労と大金と時間を彼のために使った。そしてこの結果を得た。もしこの結果から自分が何も得ないなら、まさにこれまでの心労と大金と時間は全て無駄になる」と考えることができたら、次から事態は変わってくる。
そのように考えた時には、悔しいけれども自分の弱さが見えてくるはずである。
まず、ファイティング・スピリットの欠如に気づくだろう。その他にもいろいろと分かってくる。
たとえば、あんなずるい人から好意を期待した自分の愚かさ、卑しさ。
相手をずるい人と見抜けない自分の観察眼のなさ。
自分のことも相手のことも、全く分かっていなかった。
自分に深刻な劣等感があるから相手が見えないのである。
さらに、自分がこの人生で何をしたいのかも分かっていない。
自己喪失である。
相手を見ないでお金を貸してしまう、自分の判断力のなさである。
もし愛情からお金を貸したのならば、後で結果がどうであれ、そんなに人を恨むことはない。
人を助けることは喜びをもたらすはずである。心の癒しになる、心の励みになる。
それなのに喜びを感じないとすれば、「助けること」のどこかに本質的に間違っているものがある。
本来、人を助けることで心は癒される。助けた後でその人を恨むとすれば、こちらが相手から何かを期待していたのである。その期待したものが返ってこないから、恨むのである。
自分を見つめて見えてくるものは、たとえば心のこもっていない口先だけのお世辞を喜ぶ自分の愚かさかもしれない。
嫌われることを恐れて行動してしまう自分の弱さ、浅はかさかもしれない。そのような自分の愚かさ、卑しさをずるい人間から突かれたのである。
それに、相手に何かを求めてしまうと相手が見えない。つまり相手のずるさが見えない。
そして期待されたことをしないと、相手から責められるような錯覚に陥る。
責められていないのに責められているという「被責妄想」に陥る人は、甘えの欲求が満たされていないのである。
甘えたいのに甘えられないから、何でもない言葉や行動に対して、責められていると錯覚するのである。
人を恨むことは損にしかならない
相手を恨んでしまえば、それまでの苦労や使ったお金やエネルギーが活きないばかりではなく、自分の心理的成長もない。
自分はそこまでいろいろな問題を解決して生きてきた。本当はこれが自信につながるはずなのである。
まさにレジリエンスとは、成長のために困難を切り抜けることである。そして成長し続けることである。
人は困難に打ち勝ってこそ自信がつく。
ところが嫌われるのが怖くて行動してきた時は、自信につながらない。なぜならこの行動は、成長のための行動ではないからである。
レジリエンスのある人と、単なる生存者との違いはそこである。
単に生き延びただけの人と違い、レジリエンスのある人は、情緒的に苦しい経験を切り抜けて、情緒的均衡を危機一髪のところで維持してきたということである。心の安定を失わなかったのである(註1)。
嫌われることを恐れて行動してきた人は逆である。
その経験の後で心の安定を失っている。
考えてみれば、これまで例に挙げた人たちも、それだけの人生の荷物を解決したのである。「よく解決した」と考えれば自信につながる。
「私が自分から解決した」と考えるのが、レジリエンスのある人である。
あの人がこういう態度を取るから悔しいという気持ちに振り回されない。相手がこういう態度を取るから、ということに影響されない。
レジリエンスのある人は、人の言動に反応しない。
反応しないで「私はこうする」という態度で生きる。リアクティブでない。プロアクティブである。
「あんなにしてあげたのに」と恨めば、人生の重荷を解決したことが自信につながらない。
本人が「自分が解決した」と考えていないで、相手を恨んでいるから、解決したという実感を味わえない。
解決したという実感を味わえない時は、自分の「積極性、自発性、能動性」の欠如を反省することである。
自分は単に、人から気にいられたいために動いていただけだった。「なんでここまで愚かになってしまったのか」と自分を反省する。この反省が「体験から意味を獲得する」ということである。
レジリエンスのある人は辛い体験をした時、そこから積極的な意味を獲得する(註2)。
しかし、辛い体験から積極的な意味を獲得しないで人を恨んでいる人は、また同じように誰か他の人から騙されてお金を使う。
一生無駄にお金を使う。
そのお金が、「自信のある人生」という本来お金で買えないものをもたらすはずなのに、台無しにする。
そして苦労して得たお金を一生浪費し続ける。
この態度がレジリエンスのない人である。
(註1)“Unlike the term survivor, resilient emphasizes that people do more than merely get through difficult emotional experiences, hanging on to inner equilibrium by a thread.”Gina O’Connell Higgins, Resilient Adults-Overcoming a Cruel Past, Jossey-Bass Publishers San Francisco, 1994, p1.
(註2) “I also found that they tend to negotiate an abundance of emotionally hazardous experiences, proactively rather than reactively, thus solving problems flexibly; they make positive meanings out of emotional disappointments; they effectively recruit other people.”同前、p20.








