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人間は偉大である 磨けば必ず光り輝く──松下幸之助がめざした人づくり

『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』編集部

2013年07月23日 公開 2022年08月24日 更新

《『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2013年7・8月号 Vol.12【特集・哲学ある人づくり】より》

「お得意先に行って、『君のところは何をつくっているのか』と尋ねられたら、『松下電器は人をつくっています。電気製品もつくっていますが、その前にまず人をつくっているのです』と答えなさい」。松下電器(現パナソニック)がまだ小さかったころ、松下幸之助は従業員にこんなアドバイスをよくしていたという。松下幸之助はそれほどまで人づくりに力を入れ続けた結果、独特の人間観にたどり着き、人間大事の思いを深めていく──。

 

高学歴新人を従業員食堂に配属

 旧松下電工・元会長の丹羽正治によると、松下電器に勤務していた昭和10年代前半のころ、官立の和歌山高等商業学校を卒業した男性が入社してきた。同高商は、和歌山大学経済学部の前身。当時の松下電器は株式会社になったばかりの中小企業で、まだ学卒社員が少なく、男性の学歴は新入社員の中でもトップクラスだった。ところが、男性の配属先は従業員食堂の厨房係。丹羽は気の毒に思ったが、男性は食材の購入から調理まで、汗水流してがんばったという。

 1年半か2年ほどたったころ、男性に「電熱部の東京主任を命ず」との辞令が下りた。抜てき人事だ。周囲も驚いたが、最もびっくりしたのは本人。商売のことをまるで知らない男性は、東京に向かう夜行列車の中で、商品やその値段を懸命に覚えたという。

 高商卒新入社員の食堂配属を指示していたのは松下幸之助(以下、幸之助)だった。新人男性がくさったりせずに食堂での仕事に打ち込むかどうか、チェックしていたのである。丹羽は、「学歴に対する偏見というか、おごりを(中略)乗り越えるか乗り越えんか、親父(幸之助)は見ていたように思いますわ」と述懐する(『私のなかの親父 松下幸之助』波)。

 幸之助にとって、仕事は頭で覚えるものではなかった。いくら学歴が高くて頭がよくとも、そのことが仕事能力を保証するわけではない。幸之助は言う。

 塩がからいということは誰でも知っている。砂糖の甘さも誰もが知っていると思う。(中略)しかし、砂糖も塩もなめたことがなければ、その甘さやからさの説明をいくら聞いたところで、実際の味が分かるものではないと思う。仕事にせよ商売にせよ、それと同じことであろう。

 それでは、そういう体験をどのようにして味わわせたらいいのか。(中略)私どもではこういうことをやっている。すなわち、新入社員として入ってきた人びとをすぐに職場につけるのでなく、数カ月の間、実習させるのである。その一つは社内の工場で実際にラインについて、製品の生産にあたるのだが、もう一つは、外にでて販売店さんのお手伝いをするのである。つまり三カ月なり半年の間、住み込みこそしないが、一つの販売店のいわば小僧さんとして、そのお店で命ぜられたあらゆる仕事をするわけである。(『人事万華鏡』PHP研究所)

 耳学問による知識だけでは、仕事の「味」は分からない。実際の仕事をとおして次第に分かってくるものだ。だからこそ幸之助は新入社員に対し、その学歴の高低にかかわらず、製造や販売などの仕事を現場実習させたのである。幸之助にとって人づくりの第一歩は、仕事の「味」を覚えるきっかけを与えることであった。

20歳の青年社員に出張所開設を任せる

 もう1つ昭和初期の話。幸之助は石川県の金沢に出張所をつくりたいと考えていたが、当時は病の身で動けないということもあり、弱冠20歳の社員にこう言って頼んだことがある。

 君ももうはたちやろ。(中略)中学を出て、二年間見習店員としての修業も積んで、ある程度のことは分かっているのだから、大丈夫やれるはずや。資金は三百円持っていって、それで適当なところに家を借りて、商売のやり方は大阪でやっているのと同じ要領でいい。君の是と思うようにやってくれ。(出典同前)

 20歳の社員を励まして金沢に送り出したものの、なにしろ松下電器が創業まもない町工場のころである。出張所の設立を経験したことのあるような人材が育っていなかった。

☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。

 

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