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【連載小説】家電ブラザース 井植歳男と松下幸之助 第1回(その2)

阿部牧郎(作家)

2014年04月30日 公開 2024年12月16日 更新

《『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2014年3・4月号Vol.16 より》

 

大阪の水―青春2

 

 松下幸之助は、それまでつとめていた大阪電灯(関西電力の前身)を退職したばかりだった。自分で事業をおこした。新案のソケット製造をはじめたのである。

 幸之助は、二十二歳。むめのと結婚したのは二年前だった。大阪電灯の上司の口ききで、平凡な見合い結婚をした。むめのは船場の商家へ奉公見習に出て、幸之助との縁をつかんだ。夫よりも一つ年下だった。

 松下幸之助は、和歌山県海草郡和佐村の生まれである。和歌山市の東、紀ノ川の南側の農村地帯だった。村の山のほとんどが密柑畑だった。稲作も豊富である。大阪の殺伐な活気が伝わってくることもない。温暖でのどかな土地だった。

 生家は代々の地主だった。父の政楠は若いころから村会議員をつとめていた。八人の子があった。幸之助は、その末子である。幼年期は幸福だったはずだが、記憶はかすかである。

 政楠は政界へ雄飛する野心を抱いていた。資金づくりに米相場へ手をだした。しだいに熱中し、やがて失敗した。田畑も家屋敷も人手にわたして、一家は和歌山市内へ移り住んだ。下駄屋をはじめた。幸之助が四歳のときだった。

 下駄屋もうまくいかなかった。二年後に店をしめた。流行性感冒に一家はおそわれ、長男、次男、長女をつぎつぎに亡くした。父は大阪へ出て盲唖学校の職員になった。幸之助は母親やきょうだいと、和歌山で暮した。

 小学校四年のとき、大阪の船場の火鉢店へ奉公に出された。つらい生活だった。三カ月後に同じ船場の自転車店へ移った。五年間つとめた。下働きだけでなく、修理や販売も手伝った。が、明治四十一年に大阪市内を縦横に市電が走りはじめてから、電気の魅力に目がひらけた。自転車店をやめて、彼は大阪電灯へ入社した。十五歳だった。

 明治がランプの時代とすれば、大正は電灯の時代だった。明治の末から大正にかけて電灯はものすごい勢いで、全国の家庭に普及した。ランプはたちまち駆逐され、よほどの山間辟地でないと見られなくなった。明治の子供たちの仕事だったランプの火屋磨きは嘘のように消滅してしまった。夜の街をいろどる電灯に幸之助は新しい時代のかがやきをみたのである。繊維、食器、鉄鋼機械など勃興しつつある諸産業のなかで、あえて彼は、電気の世界をえらんで身を投じた。カンもするどかったが、幸運でもあったのだ。

 大阪電灯へ入社、一年たらずで幸之助は一人前の配線工になった。二十歳で結婚し、二十二歳で検査員に昇進した。検査員は配線工あこがれのポストである。三十代、四十代になっても、そこへ到達できない者が多い。幸之助は二十二歳で、そのポストを得た。きわめて有能で、熱心だったのだ。

 検査員の仕事はらくだった。二時間も働けば、一日の仕事がかたづいてしまう。ひまにまかせて幸之助は発明、発見にエネルギーを投入した。そして、改良型のソケットをつくった。ネジを使わずにコードをとめられる新製品である。

 電灯が普及したといっても、電力の消費量はまだわずかなものだった。ふつうの家庭では六ワットから十ワット程度の電球を、一軒に一箇使っていた。定額料金制で、コードの長さも十二尺(一尺=約三〇センチ)ときめられていた。電灯をわけたり、コードをのばしたりするにはソケットが必要である。厳格にいえば、ソケットの使用は違反だった。だが、形式的な規約が問題とならないほど、ソケットの需要は大きく潜在していた。

 新案のソケットを、幸之助は会社の製品に採用してもらおうとした。ところが、審査担当の一色という主任は、「こんなもんあかんで、売れるわけがない」

 と、提案を一蹴してしまった。

 仕事は退屈である。絶対の自信のある改良ソケットは採用されない。幸之助は、それを自分の事業にしようと決心した。さいわい胸の病気も、悪化する気配がない。予想される厖大な需要を、手をこまねいて見送るほど、幸之助は臆病ではなかった。野心家だった父の血をうけついでいた。

 幸之助は自宅の土間を工場に改造した。仲間も二人あつめた。雑用を手伝ってくれる者が一人ほしい。むめのの弟の歳男が、仕事をさがしているとの話をきいた。歳男は高小を出て、叔父の石灰運搬船の下働きをしていた。が、最近爆発事故に遭遇して、海の仕事に見切りをつける心境になっていたのだ。

 幸之助はむめのの母親、井植こまつに手紙を書いた。歳男を手伝いによこしてもらえないだろうか。かならず一人前の男に育てあげてみせます。打てばひびくように、こまつから承諾の返事がきた。幸之助が大阪電灯をやめてまだ半月もたたないうちに、歳男は柳行李をかついで淡路島から出てきたのである。

 歳男の大阪暮しがはじまった。

 すぐ夏になった。大阪の夏は、鉄板で煎り立てられるような季節だった。陽光もぎらぎらしている。だが、大地からそれ以上に強烈な反射熱が立ちのぼる。上下から熱線に射ぬかれて、体の水分が干あがってしまう。

 歳男は毎日、丁稚車をひいて炎天下の街をあるいた。新型ソケットの材料であるコーパルゴム、石粉、石綿などを道修町の薬品問屋へ仕入れにゆくのだ。道はまだほとんど舗装されていなかった。石にぶつかるたび、轍がふるえる。そのころの歳男は、小柄なほうだった。轍が大きな石にぶつかると、梶棒ごと体が跳ねあがった。

 鶴橋から道修町まで、およそ一里の道のりだった。近道もあったが、坂が多い。それでも歳男は近道を通った。荷物を積んで上り坂にさしかかると、一歩ごとに骨のきしむ思いだった。汗が流れるのは最初のうちだけだった。襦袢も半纒もずぶ濡れになると、汗が尽きて出なくなる。埃と塩が体に付着した。カキ氷、冷やしあめ、アイスクリンなどの屋台のそばを通ると、欲しくて目がくらみそうになった。だが、歳男はわざとゼニをもたずに仕入れに出た。帰れば美味い井戸水が飲める。大阪へあそびにきたわけではない。むだづかいはできない。

 義兄の教えをきっちりまもった。義兄は歳男より八つ年上なだけである。だが、二十も三十も年上であるような気がしていた。幸之助には他人を教えさとして心服させる、ふしぎな説得力があった。

 義兄さんのいうとおりにしとりや、まちがいない。大阪へきて一週間もたつと、歳男はそう思うようになった。父をすでに亡くしていた。幸之助に父親の身替りを期待していたのかもしれない。

 重い荷物をひきながら、歳男は淡路島のことを思った。島では、その気になればすぐ海辺へ出ることができた。ほうぼうに砂浜があった。泳いで涼をとることができた。汐風に吹かれ、カモメや海ツバメを見ているだけで気分がよかった。しばらく海辺であそんだあと、山へ馬の草を刈りにいった。薪をとりにもいった。淡路島の夏は涼しかった。そう思うと、丁稚車をひきながら、束の間、暑さをわすれることができた。空にうかぶ白雲に、島影をかさねあわせることもあった。

 やっと鶴橋へ帰りついた。顔も腕も埃まみれだった。歳男はまず裏へまわる。井戸の水をくんで思いきり飲んだ。涼味が内臓にしみわたった。淡路島は水の便がわるい。湧水がすくなかった。井戸の水も、清冽なのはめったにない。それにくらべると、大阪の水は美味かった。かすかに甘みを感じることもあった。さすがに水の都やなあ。裏の井戸の水を飲むたび、そう思った。カキ氷やアイスクリンの誘惑に負けなかったのは、大阪の澄んだ水のせいでもあったのだ。水を堪能したあと、また労働だった。仕入れてきた材料を土間へ運び込まねばならない。

 義兄の指示どおり、材料を配合する。それを足でこねまわした。粘土のような感触のなかで、何時間も足ぶみをつづけた。型押しも手伝う。製品の運搬も手伝う。きびしい労働だった。大人たちに伍して歳男は働いた。義兄の小さな工場には、林と森田という仲間がきて働いていた。二人とも大阪電灯の配線工だった男たちだ。

 まだ製品の販売に廻れる時期ではなかった。幸之助は原材料の配合をさまざまに変えて、良質の製品の模索をつづけていた。二人の仲間も必死だった。作業場には熱気が充満していた。夏のあいだ、男たちは半裸で、汗にまみれて働いていた。生まれてからいちばん暑い夏をすごしながら、三人の大人は陽焼けしない、生っ白い顔をしていた。

 ある晩、歳男は夕食のあと、路地へ出て夕涼みをしていた。義兄の幸之助は熱にうかされたような顔で、まだ作業場でソケット原材料の配合を考えている。

 姉のむめのが裏口から外へ出てきた。風呂敷包みをかかえて、肩をすぼめている。

 どこへいくねん姉ちゃん。歳男は訊いた。姉はかすかに笑ったらしかった。

 「ちょっとお友達のとこへいってくる。着物の仕立て、たのまんならんさかい」

 路地の外へむめのは出ていった。第六感が働いて、歳男はあとを追った。

 思ったとおりだった。表通りに近い質屋へ彼女は入っていった。仕立てをたのむどころか、着物の質入れにきたのだ。義兄の工場はまだ収益をあげていない。生活費に事欠くのは当然のなりゆきだった。

 歳男は家にもどった。作業場を覗いてみた。幸之助が机に向かって、なにかメモをとっている。考え込んで、またメモをとる。資料を睨んで、さらにメモをとった。

 生計のことで思いなやむ表情ではなかった。

(3)につづく

<参照ホームページ>松下幸之助の生涯

 

<作者紹介>

阿部牧郎あべ・ まきお)

1933年生まれ。京都大学文学部卒。1988年、『それぞれの終楽章』(講談社)で第98回直木賞を受賞。戦記小説、時代小説など幅広い分野で健筆を振るっている。近著に『神の国に殉ず 小説・東条英機と米内光政』(祥伝社)、『定年直後』(徳間書店)などがある。

 

<掲載誌最新号紹介>

2014年5・6月号Vol.17

5・6月号の特集は「実践! 自主責任経営」。
「自主責任経営」とは、“企業の経営者、責任者はもとより、社員の一人ひとりが自主的にそれぞれの責任を自覚して、意欲的に仕事に取り組む経営”のことであり、松下幸之助はこの考え方を非常に重視した。そしてこれを実現する制度として「事業部制」を取り入れるとともに、「社員稼業」という考え方を説いて社員個人個人に対しても自主責任経営を求めた。
本特集では、現在活躍する経営者の試行や実践をとおして自主責任経営の意義を探るとともに、松下幸之助の事業部制についても考察する。
そのほか、パナソニック会長・長榮周作氏がみずからを成長させてきた精神について語ったインタビューや、伊藤雅俊氏(セブン&アイ・ホールディングス名誉会長)、佐々木常夫氏(東レ経営研究所前社長)、宇治原史規氏(お笑い芸人)の3人が語る「松下幸之助と私」も、ぜひお読みいただきたい。

 

BN

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