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小早川隆景は、なぜ秀吉の「中国大返し」を追わなかったのか

近衛龍春(作家)

2014年05月15日 公開 2019年09月27日 更新

小早川隆景

一世一代の決断

 翌5日、恵瓊から毛利輝元に、事後処理として清水宗治自刃の報せが届けられた。

 輝元、元春、隆景3氏に対して、秀吉は約束は必ず守りますという3カ条からなる血判起請文を発し、撤退準備を始めさせた。

 秀吉は堤防を破壊して帰途に就いた。俗に言う中国大返しの始まりである。

 人工湖の水は濁流と化して流れた。激流は羽柴軍と毛利軍を見事に分断したことになる。

 羽柴軍が退きにかかってすぐ、紀伊の雑賀衆から猿掛城に本能寺の変の報せが届けられた。この時、元春と隆景は同城におり、今後の対応を相談しようとしていた矢先のことであった。

 「騙しおって。即座に追い討ちをかけよ!」

 猛将で知られる元春は怒号した。ほかの毛利家の重臣も同調する。

 (羽柴め、やりおるの。やはり、さりとてはの者か、と感心している場合ではないの)

 隆景も腹立たしい。とはいえ、元春には断乎、同意できない。

 「既に羽柴と起請文を交わした以上、これを破棄することはできぬ」

 「筑前(秀吉)めは最初から我らを騙したのじゃ。起請文など、ただの紙切れと同じじゃ」

 唾を飛ばして元春は叫ぶ。

 「されど、この現状をいかがなされる? 羽柴は足守川を暴れ川に変えた。兵の移動は困難でござる。海もまた怪しい限り」

 秀吉は村上水軍の来島通昌を調略しており、海から円滑に追撃できなくなっていた。

 「山を迂回すればよい」

 「主の仇討ちをせんとする兵は強い。これを追えば、必死に戦う。すぐに大友と戦わねばならぬ我らが、無駄に兵を損じることもござるまい。それに彼奴らは一年中戦ができる」

 毛利家は織田家のように兵農分離をしていないので、農繁期に出陣できなかった。

 「そちは、この屈辱、なんとも思わぬのか」

 「実を取りましょう。追えば相応の打撃を与えられるが、羽柴を討てねば羽柴は憎しみの塊となる。さして我らに恨みを持たぬ信長にすら、ここまで追い詰められたのでござる。憎しみを持った羽柴が再び兵を進めてくれば、こたびの比ではござらぬ。明智が信長を討っても、主殺しが長く栄えた例はござらぬ。見事に我らを騙して、仇討ちに戻った羽柴らが勝利するに違いなし」

 隆景は一息吐いて続けた。

 「ここは恩を売ってやりましょう。上方が纏まるには数年を要するはず。その間、我らは失った地を取り戻し、内を固めるが先決。亡き父上(元就)も上方に望みを持つなと申されたではござらぬか」

 憤怒する元春を、隆景は柔らかく宥め、渋々納得させた。さらに隆景は毛利家の旗差物まで貸してやった。お人好しな行動であるが、隆景の説得で毛利軍が追撃しなかったことで秀吉は山崎の合戦で明智軍を破り、天下取りの契機を掴むことができた。

 のちに秀吉は隆景に恩義を感じ、輝元と隆景は年寄(大老)に席を列ねることになる。

 毛利は追撃しなかったことで消耗戦を避けて乱世を生き延び、幕末の雄藩として明治維新を達成することに繋がった。

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