クローザー上原浩治の「覚悟の決め方」~不安こそ力になる
2015年05月12日 公開 2019年05月20日 更新
「運」も「奇跡」も自分で呼び込むもの
たとえば、ヒット性の痛烈な当たりが野手の正面に飛んだり、完全に抜けたと思った打球が好捕されたりしてアウトになることがある。
逆に、詰まった当たりが野手と野手のあいだに落ちてポテンヒットになったり、ピッチャーからすれば狙い通りのコースに狙い通りのボールを投げられたのに、いとも簡単に打たれたりすることもある。
はたから見れば、ラッキーあるいはアンラッキーに思えるかもしれない。マスコミなどは、予想外の出来事が起きると、「奇跡」とか「ミラクル」という表現をよく使う。
私も「運」や「ツキ」というものを完全には否定しない。イメージ通りのボールを投げられ、完全に打ち取ったと思った時でも、ヒットにされることがある。そういう場合は、運が悪かったとか、ツイていないというふうに、ある程度割り切らないと前に進めないからだ。
でも、たいがいは起こった結果には、そうなった理由があるのではないかと思う。
たとえば、抜けたと思った打球がキャッチされたのは、あらかじめ野手が守る位置を変えていたからだったかもしれないし、イメージ通りのボールが痛打されたのは、バッターが配球を読んでそのボールを待っていたからだろう。
つまり、どれだけ事前に準備したか。それによって、結果はずいぶんと変わってくるのだ。
痛烈な打球が野手の正面に飛んだのも、野手のあいだに落ちてポテンヒットになったのも、「野球の神様」がいて、その神様がより多く準備したほうに味方してくれた結果なのだと私は考えている。
言い換えれば、「運」や「奇跡」というものは、自分で呼び込むものなのであり、それができるかどうかは、準備の多寡に比例すると思うのだ。
何もしないで結果が出れば、こんなに楽なことはない。けれども、そんなことはありえない。しっかり準備をするからこそ、運やツキも味方となり、結果が出るのだと思う。
「努力は裏切らない」とは野村克也さんの言葉だったと思うが、より努力した者が報われるのだ。そうでなければおかしい。これは野球にかぎった話ではないと思う。