石田三成・失敗の研究~関ケ原での計算違い
2014年06月23日 公開 2024年12月16日 更新
PHP文庫『「戦国大名」失敗の研究』より一部抜粋編集。
あり得なかった関ケ原合戦の計算違い
合戦はほとんどの場合、偶然の出来事で勝敗が決まることはない。外交によって敵よりも多くの味方を得、多くの兵を揃え、多くの武器を持ち、有利な場所に展開することが勝因となる。味方を得ることも兵や武器を揃える経済力を整えることも、すべては大名の政治力にかかっている。周りを巻き込んで、動かす力にかかっているのである。
政治力のないリーダーは、どんなに能力があろうと、資金があろうと、正統な後継者であろうと、人々を動かすことはできない。
名将と謳われた者、圧倒的な権威者、有能な二世、将来を嘱望された重臣など、本来「敗れるはずのなかった者」が敗れたのは一体、なぜか? 本書『「戦国大名」失敗の研究』では、政治力を1つの視点に、今までと少し違った角度から戦国大名の生き様を考察し、現代にも通じるリーダーが犯しがちな失敗の教訓を導き出す。
裏切りが出る前までは完璧な企て
石田三成の遺骨が、明治40年に発掘調査された。
調査にあたった学者は三成の頭蓋骨の形から、彼が腺病質、つまり病弱で神経質であったと推定しているが、しっくりこない。
トゲトゲした神経質な官僚、というイメージがそこから派生して想像できるが、三成の行動を仔細に見れば、神経質どころか、大胆不敵という以外にない。
近江・佐和山19万4000石の三成が、関東250万石の徳川家康と一戦交える。よほどの度胸がなければやれなかったであろう。
と同時に、緻密に戦略を練り、幾通りもある戦いの推移を想定し、こちらの弱点を補い敵の弱点を突く準備をしていたはずである。病弱で神経質な人間にできるものであろうか。
数字を検討してみよう。
わかっている範囲で言えば、西軍(石田三成)側と東軍(徳川家康)側の国力の差は、以下のとおりである(旧参謀本部編「日本の戦史・関ヶ原の役」ほか参照)。
西軍 1124万石
東軍 968万石
兵力の差は、単純に石高から見れば西軍有利であり、実際、関ヶ原に陣取った兵力は、
西軍 8万2000
東軍 7万4000
であった。
ただし、ここには変数がたくさんあって、その最も大きなものは、西軍から東軍に寝返った者たちである。
小早川秀秋をはじめ、石高で言えば約86万石が東軍に移動した。
さらに言えば、当日、南宮山にいた毛利勢は結局本戦に参加せず、こういう傍観組もいた。
三成が計算したのは裏切り者が出る前の数字であり、関ケ原本戦が始まる前で言えば、見事にプロジェクトを開始させたわけである。
では三成の何が、失敗を招いたのか。
「勢力」を持っていたかどうか
それは、「勢力」について、見誤っていたのだと考える。
社会心理学者のジョン・フレンチとバートラム・レイブンは、勢力について興味深い分類をしている(斉藤勇編『社会的勢力と集団組織の心理』)。
(1)報酬勢力:AはBに対して報酬を与える力を持っている、とBが考える。
(2)強制勢力:AはBに対して、罰を与える力を持っている、とBが考える。
(3)正当勢力:AはBの行動を決める正当な権利を持っている、とBが考える。
(4)準拠勢力:BがAに対して魅力を感じ、Aと一体でありたい、と考える。
(5)専門勢力:Aは特定分野で、専門的な知識や技術を持っている、とBが考える。
これに加え、バートラム・レイブンは
(6)情報勢力:Aの知識や情報の伝達が、集団の外にいるBに影響を及ぼす。
という勢力を加えた。
石田三成や徳川家康に当てはめながら見ていきたい。
まず、(1)報酬勢力。AはBに対して報酬を与えてくれる力を持っている、とBが考える。
これは、徳川家康も石田三成も、どちらも勝利後の報酬(役職や加増)を約束し、またこれを期待させるに十分な根拠も持っていたので、互角といっていい。
(2)の強制勢力。AはBに対して、罰を与える力を持っている、とBが考えるのも、家康、三成、ともに存在していた。
家康は豊臣政権下では五大老で、上杉景勝に対して軍を動かしたのも、懲罰が名目である。また三成も豊臣政権下では五奉行の1人として、朝鮮の役における諸将の行動について、懲罰を与えている。西軍の実質的なトップとなった三成は当然懲罰の力も持っていた。
(3)の正当勢力であるかどうか。
家康は豊臣秀頼の代理として、上杉討伐を行うため出兵したのであり、三成は、「豊臣家を家康の横暴から護る」という大義名分で諸将を集めた。
(1)報酬を与える(アメ)、(2)強制する(ムチ)、(3)正当である(題目)については、家康も三成も揃っている。
問題は、残りの3つである。