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生き方

小柴昌俊「ニュートリノと私」

小柴昌俊(物理学者/ノーベル物理学賞受賞者)

2014年07月31日 公開 2024年12月16日 更新

人間同士の関係って、不思議なものでね。朝永先生と初めて会って、話し始めていたら、先生が好きで好きで、たまらなくなっちゃった。それ以来、終生のお付き合いだけど、その後の僕の人生の大事な局面で、先生は恩着せがましいことは何も言わずに、陰で支えでくださったんだね。《100年インタビュー『ニュートリノと私』より》

 

朝永先生との知遇を得る

――ここまでお話をうかがいながらすごく感じることは、先生にはここぞという時にいろいろな多くの方たちが、手を差し伸べてくださっていますね。その後アメリカヘ留学されたのも、あの朝永振一郎先生(1965年にノーベル物理学賞受賞)のおかげとか。

【小柴】いや、本当にそうなんですよ。ありがたい出会いがたくさんあってね。朝永先生に初めてお会いしたのは、先生がまだノーベル賞を取られるずっと前ですね。僕が大学の物理学科に入った年に、先生に会いに行ったの。

僕はね、一高時代に寮の副委員長をやっていたのよ。まあ自治会みたいなもの。そのせいで、その時の一高の校長先生とも接触する機会があったわけ。その校長先生が、天野貞祐というカント哲学の大学者ね。

3月の卒業の時に校庭で顔を合わせたらね、その先生から。「小柴君、何学科に行くことになりましたか?」と聞かれて、「先生、私は物理学科に行くことになりました」と答えると、先生はこうおっしゃった。

「そうですか。私は哲学ですから、物理のことは何もわかりませんけれども、私が京都大学で師事した哲学の先生の息子さんが、物理をやっていてね。私は縁あって、その人の仲人をしました。その人がいま東京に来ていて。物理を教えています。どのぐらいできる人か私は知りませんけれども、とにかく紹介しましょう」と言って、紹介状を書いてくれたの。

紹介状に「朝永振一郎様」と書いてあるんだけど、恥ずかしいことに、物理学科に入った学生でありながら、僕は朝永先生がどんなすごい仕事をされた大先生か、全然知らなかった。知らないけれども、せっかく天野先生か紹介してくださったからと思って、紹介状を持って、朝永先生に会いに行ったわけ。

先生は自宅を空襲で焼かれて、大久保の陸軍の練兵場の地下壕にね、他の家族と一緒に暮らしていらした。紹介状を見せたら、「ああ、天野先生のご紹介ですか。ここではあまりむさ苦しいから、研究室の方に行きましょう」と言って、先生よれよれの浴衣のまま私を連れて、研究室へ行って。

先生はそこで、配給のその頃の手巻き煙草をフカフカやりながら、話をしたんだけどね。人間同士の関係って不思議なもので、僕、先生とそうやって初めて会って、話し始めて10分もしたらね、先生が好きで好きでたまらなくなっちゃったの。大好きになっちゃったの。

どんなところが魅力なのかって? なぜだかわからないんだよ、人が人を好きになるっていうのはね。だけどとにかく、僕は話をしているうちに、朝永先生か好きでたまらなくなっちゃった。

後でわかったことだけど。先生は自分の気に入らない学生には、けっこう冷たい部分もおありになったそうだけど。どこがウマが合ったのか。僕のどこを見込んでくださったのか。それはわからないんだけど。とにかく、こっちがもう無性に好きになっちゃうと、先生も、好意を感じてくれるらしくて。

それから何だかんだと電話で連絡をとって、落ち合って飲むんですね。僕は何しろそういう事情で物理学科に入ったくらいだから、物理の話なんかできない。物理以外の話で、先生と飲むわけよ。

 

有形無形に助けてくださった恩師たち

――朝永先生とは終生のお付き合いになるそうですけど、ここでも、のちのノーベル賞学者が、若き日の小柴さんに大きな影響を与えたわけですね。

【小柴】そうそう。僕はね、この先生にいろいろなことでお世話になっていて。ただ、僕はぼんやりしているから、その時点では気がつかないで、何十年も経ってから、「あ、この時、朝永先生がこういうふうにしてくださったに違いない」っていうのが、後でわかった。

例えばね、ずっと先のことだけど、僕がアメリカへ行って最終的に帰ってきて、いろんな先生方と喧嘩しちゃって、それでまたアメリカへ戻ろうかなと思っている時に、東大の物理教室が助教授を公募していた。

僕も応募しようと思ったんだけど、大先生方と喧嘩しちゃってるから、誰も推薦状を書いてくれないわけ。だからしょうがないから、自薦って形で本郷の物理教室に応募したわけ。で、普通ならね、採ってもらえるはずかない。

だって、さっきのような成績で、その学科を卒業してまだ十数年しか経っていない。しかも、その時の物理教室の主任は、もう秀才で天下に有名な小谷正雄という、理論の大先生なわけ。

その先生が、成績不良の僕を採るはずがないんですよ。それがね、反対を押さえてね、小谷先生が僕を採ってくれた。

その理由がね、いつまで経ってもわからなかったんだけど、去年やっと、古い文章を見ていてわかったのね。僕が採用される半年前にね、朝永先生と小谷先生が、学士院賞を共同でもらっているんだ。

つまり2人はね、ある1つの理論の仕事を一緒にやっていて、その仕事に対して2人は連名で受賞しているの。だから親しいんだ。だからきっと、朝永先生が小谷先生に電話でもしてね、「小柴は成績は良くないけど、それほど馬鹿じゃないよ」ぐらいなことは言ってくださったんだよ、きっと。

僕がアメリカの大学院へ行く時もね、朝永先生が推薦状を書いてくださった。そういうことを朝永先生は恩着せがましく言ったりせず。裏で動いてくださっていたんだね。僕は、ある時、朝永先生に言ったことかあるんですよ。

「先生もおっかない時があるんですか」つて。「僕は、先生に怒られたことがないですね」と言ったら、先生ニヤッと笑って、「君は僕が怒っていても、気がつかないんじゃないかい」って、そう言われましたけど。

だけど先生は、何も言わないで、そういうふうに僕のためにいろんなことをやってくださっていたんだね。だから、申し訳ないと思うよ、僕は。

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