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豊かな人生のための「怒る技術」

2014年11月20日 公開

中島義道(哲学博士、哲学塾「カント」主宰)

《『怒る技術より/本書は11年ぶりに復刊したものです

 

怒れない人とキレる人

 現代日本には「怒らない人」がうじゃうじゃ生息しています。老若男女、前後左右、突如ぶん殴られても怒らないであろうような柔和な顔、顔、顔の氾濫。私はぞっとしてきます。大学でも、私が主宰する哲学塾でも「先生、怒ることができないんです」という訴えは少なくない。そう現に訴えないまでも、実際に怒らない、怒れない青年たちの群れです。

 しかし、その反面では、どうしたのかと思うほどささいなことでキレる青少年が蔓延している。私の仮説によりますと、両者は無関係ではない。むしろ車の両輪のような深い関係にあります。怒ることを丹念に学んでこな

かったから(学ぶ機会がないから)、体内に怒りの渦が巻きあがるとき、どうしていいかわからない。罵倒することも学んでこなかった。相手を屈辱的な目に遭わせる仕方も学んでこなかった。まして、冷静に抗議する仕方はだれも教えてくれなかった。こんな状況にあって、どうにも自分をもちこたえられなくなると、ただひたすらキレる。

 彼(女)は怒りが自然な人間的感情であるということを学んでこなかった。怒りとは、こういう環境に育った子にとっては、生理的な抑圧の対象でしかない。だから、怒りが体内に発生するとき、ひたすら抑え込むことしかできない。それが、もはやできないとき、彼(女)は怒りを自然現象のようにただ爆発させるだけなのです。

 いいでしょうか。怒る技術を学ぶことは、効果的に怒る技術を学ぶこと、つまり怒りを爆発させるのではなく、冷静に計算して相手にぶつける技術を学ぶことなのです。

 

私も怒れなかった

 こういう私も、じつは小学校・中学校・高等学校を通じて怒らない子、いや怒ることができない子でした。喧嘩は一度もしたことがない。罵倒もしない。そのかわり、カッとなると、大切に組み立てた東京タワーをぶち壊したり、苦労して収集した記念切手をすべて破ってしまったり、時折キレた。

 たいそう不安定な精神状態でした。こうした状態は大学生になっても続き、何をしていいかわからず、12年も大学にいて、そのうち2年ほどはひきこもっていました。しかしそのときでさえ、真の意味で怒ることはなかったのです。

 私が怒りを修行したのは、30歳で大学から放り出され予備校教師を2年半勤めたあと、じつに33歳でひとりウィーンに飛んでからのことです。

 ウィーンでは、私は怒らなければ生きていけなかった。ウィーンは前世紀のヨーロッパの悪いところがすべてそろったところで、(少なくとも30年前は)能率は悪く、官吏はいばっていて、しかも無能。カフカの世界そのものであった。大学の事務局でも市役所でも、事務員たちは勝手なことを主張する。しかも、高圧的に。その8割がまちがっているのに。こうした状況に投げ込まれて、私費留学生としての私は、自分が生きていくために、ほんとうは怒っていなくても、怒っているようにふるまわなければなもなかった。相手を執拗に責めることによって、自分の正しさを浮き立たせなければ、生きていけなかったのです。こうして、気がつくと、私はウィーンでは四六時中烈火のごとく怒っていました(このことについては『ウィーン愛憎』中公新書を参照)。

 同時に、彼らと互角に戦おうとして、私は熱心にヨーロッパ人を観察しました。私がどんなに怒っても、彼らの「怒る力」には及ばない。彼らはなんとまあよく怒ることかと驚きましたが、しだいに明らかになってきたのは、彼らの怒りの表出の仕方がわれわれ大和民族のそれとはだいぶ違うということ。本書でもたくさんヨーロッパ人との喧嘩が出てきますが、ここで彼らの怒り方の特徴に関して思いついたことをピックアップしてみますと、次のようになりましょう。

 (1)すぐに怒りを表出すること。
 (2)以前の怒りを根にもつことが少ないこと。
 (3)怒りははげしく、しかしただちに収まること。
 (4)怒りの表出が言葉中心であること。
 (5)個人的に怒ること。
 (6)演技的な怒りであること。

 これらは、そのまま本書における理想的な怒り方の目安となります。私は4年半ウィーンに滞在して、日々このすべてをシャワーのように浴びせかけられ、帰国したとき、並みのヨーロッパ人以上に「ヨーロッパ的怒り」を体得していました(とはいえ、あまりにも熱心に習得したものですから、彼らほど自然体ではないのかもしれない)。とにかく、ヨーロッパ体験を通じて私は「怒らない男」から「怒る男」に大変身していたのです。

 

個人語をつぶす社会

 ところで、冷静に周囲を眺めてみますと、わが国で進行している「言葉をつぶす運動」にはすさまじいものがある。とくに「個人語」をつぶし「世間語」に置き換えようとする大がかりな運動がまかり通っている。

 こうした結果、人々はみな同じ言葉を同じ口調で語る。少しでも気まずいと、たちまち口を閉ざし、「知らぬ、存ぜぬ」の一点張り。それぼかりか、固有の言葉を語り出す人を「ジコチュー!」とか「無礼者!」と言って排除する。いや、もっと巧妙で「あなたには思いやりがない」とか「ひとを傷つけないように」とか「もっと言い方に気をつけて」という「やさしい」言葉をふんだんに振りかけて個人語をこなごなに粉砕しようとする。

 現代日本に進行しているこういうすさまじい弾圧のもとに人々は言葉を奪われるとともに、固有の感受性も奪われている。その典型は怒りを奪われているということです。怒りとは個人のあからさまな表現ですから、ぶっそうなものであり、他人と対立を呼び起こすものであり、抑え込むにかぎる。

 こうして、多くの人は人間として、いや生物として怒りを当然発すべきときにも発しない、いや発することができない、という症状に陥っている。だれも怒らない。そして、だれかが怒りそうになると、みんなでそれを必死になだめようとする。怒ったらもう負けだ。と言わんばかりに、非難の目で見る。

 こういう空気の中に適当に自分を合わせていけるたくましい人は、それでいいのです。善良な市民のように、感受性も思考力も麻痺してしまい、しかもそのことに気づかず、みんなと同じであることに無性に喜びを感じている輩なら生きていけるのです。

 

怒ることが必要な人々

 しかし、あまりにも繊細であまりにも要領の悪い人がいる。こうした文化の犠牲者である彼らは、怒ることができないために、苦しんでいる。といって、いまさら怒れば、もっと苦しむでしょう。いや、怒ろうとしてもどうしていいかわからない。彼らは怒り方を学ばなかった。怒ってはならないことばかり教えられた。こういう悲惨な犠牲者です。

 私のもとには、こうした犠牲者から多くの手紙が来ます。しかも、そのどれもが似ていて、他人とうまく人間関係が築けず、恐ろしく消極的であって、ひとから何をされてもどうしても怒れない、というもの。

 本書では。こうした手紙をいくつか紹介しながら論を進めていくことにします。とはいえ、プライバシーもありますので、1つの手紙を2つにいやさらに多くに分割したり、2つのいやそれ以上の手紙を1つの手紙に合成したり、職業や年齢や状況を適当に変えたりして、紹介することにします。つまり、手紙の文面はほとんど私の創作となっています。でも、その背後には、膨大な私に向けての現実の叫び声があること、このことを知ってもらいたいと思います。

 こうした空気の蔓延している現代日本において、怒る技術を習得することは容易なことではありません。しかし、難しいからこそ、あなたにとって一生をかけてでもやるだけの値打ちのあることなのです。

 さあ、きょうから怒れる「からだ」に自己改造しましょう。そして、豊かな人生を取り戻しましょう。

 

<著者紹介>

中島義道(なかじま・よしみち)

1946年生まれ。東京大学人文科学研究科修士課程修了。ウィーン大学哲学科修了。哲学博士。2009年、電気通信大学教授を退官。現在、「哲学塾カント」を主宰。
著書は『ウィーン愛憎』(中公新書)、『「時間」を哲学する』(講談社現代新書)、『悪について』(岩波新書)、『孤独について』(文春文庫)、『「死」を哲学する』(岩波書店)、『私の嫌いな10の言葉』(新潮文庫)など多数。



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