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吉田松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは

安藤優一郎(歴史家/文学博士)

2015年01月23日 公開 2024年12月16日 更新

《PHP文庫『30ポイントで読み解く 吉田松陰『留魂録』より》

 

僅か30年の生涯――遺された時代を動かした魂が

 安政6年(1859)10月27日。長州藩士吉田寅次郎こと吉田松陰は江戸城近くの評定所に呼び出され、幕府から死罪を申し渡された。

 時を移さず、日本橋近くの伝馬町牢屋敷に連行された松陰は、首切り浅右衛門こと山田浅右衛門介錯のもと刑場の露と消える。わずか30年の生涯であった。

 この日、松陰は波乱の生涯を終えた。だが、その魂は『留魂録』という形で生き続ける。「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という松陰の歌はあまりにも有名だが、実は「留魂録」の冒頭に掲げられた歌だった。150年以上経過した現在でも、松陰が放つ言葉の数々は人々の心に深い感動を与えるが、その象徴たる著作なのである。

 『留魂録』を遺した松陰とは、いったいどんな人物だったのか。

 

破天荒な行動と投獄生活――「松下村塾」への源流となる

 文政13年(1830)8月4日、松陰は萩城下郊外の松本村で生を享けた。父は長州藩士杉百合之助。母は滝。兄と弟が1人ずつで、妹が4人の計9人家族。杉家は家族が多い上に、藩内での家格は低かった。そのため、武士でありながらも田畑の耕作により生計を支えざるをえず、松陰一家は城下を離れて松本村に土着していた。

 松陰は嫡男ではなかったため、叔父吉田大助の養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範の家柄であり、以後兵学者としての道を歩んでいく。

 天保11年(1840)に、松陰は藩主毛利慶親の前で兵書「武教全書」を堂々と講義し、一躍注目を浴びる。まだ11歳になったばかりであった。

 その後、軍学稽古のため江戸へ出府するが、江戸滞在中に人生最大の師と出会う。西洋兵学者として知られた松代藩士佐久間象山である。

 異国船の度重なる来航という対外的危機を受けて、「東洋の道徳、西洋の芸術」を唱える象山の強い影響のもと松陰は破天荒な行動に出る。西洋の文明を知ろうと、密かにアメリカに渡ろうとしたのだ。

 まさしく密航である。国禁を犯すことに他ならない。

 嘉永7年(1854)3月3日、日米和親条約締結に成功したペリーは、同条約により開港が決まった下田港に艦隊を向かわせた。ペリーの乗船する旗艦ポーハ夕ン号が入港したのは3月21日。

 同27日、松陰は足軽金子重之助とともに漁船でポーハタン号に近づき、アメリカに連れて行って欲しいと訴えるが、その拒絶に遭ってしまう。

 密航に失敗した松陰は幕府に自首。吟味の結果、国元に強制送還されることとなった。松陰25歳の時である。

 10月24日、萩に戻った松陰は幕府に遠慮する藩当局によって城下の野山獄に投獄される。獄中生活は1年以上にも及んだが、その間、松陰は決して無為に過ごしたわけではなかった。自分と同じ境遇の囚人に対して『孟子』や『論語』を講義し、その更生をはかっている。

 松陰が出獄したのは翌安政2年(1855)12月15日のことだが、実家の杉家に戻って2日後の17日より、今度は父や兄に対して『孟子』の講義を開始した。『孟子』が終わると、次は兵学書や歴史書の講義へと進んだが、時事問題について熱く論議することもあったという。

 その頃になると、松陰の講義の評判を聞き付けた藩士たちがその教えを受けるようになる。松下村塾への源流であった。

 

再び幽囚の身に――老中間部の暗殺計画を宣言

 松下村塾は松陰とセットで語られることが多いが、当初は杉家の一室四畳半が教室だった。その後塾生が増えたため、杉家敷地内の小屋を改造して八畳の教室を作ったが、これでも足りず、安政5年(1858)3月に十畳半分の控室を増築した。主宰する松下村塾が幾多の有為の人材を排出したことは、これから述べていくとおりである。

 松下村塾の活動が軌道に乗ったのとは裏腹に、アメリカとの通商条約の締結問題を契機として政治情勢は混迷の度を増す。時勢への関心が元々強かった松陰は、事が外交問題であったがゆえに、とても黙ってはいられなかった。先述のように、ペリー再来航時には国禁を犯してアメリカに密航しようとはかったほどである。

 よって、自分の思いを貫くために再び破天荒な行動に出た。しかし、これが松陰の人生を太く短いものにする。

 幕府は世界情勢を踏まえてアメリカとの通商条約締結に傾いていたが、国論を統一させるため天皇(朝廷)の承認を得た形での条約締結を目指した。外交問題には挙国一致で臨むことが不可欠であり、天皇の政治的権威を利用しようとしたわけである。

 ところが、幕府にとり大きな計算違いだったのが、通商条約に対する孝明天皇の強い拒絶姿勢だった。天皇は極度の攘夷主義者であり、元々外国人に対して強い嫌悪感を持っていた。外国との貿易開始によって国内の産物が外国に流れることにも、拒否反応を示した。こうして、通商条約締結の承認を求めてきた幕府の申請を却下してしまう。

 通商条約締結問題は暗礁に乗り上げるが、安政5年6月19目、大老井伊直弼は天皇の許可つまり勅許を得ること、なく通商条約の締結に踏み切る。天皇や朝廷はもとより、井伊を快く思わない大名や藩士たち、そして尊王攘夷の志士はその非を鳴らすが、逆に弾圧を受ける。世にいう安政の大獄だ。     勅許を得ず通商条約を締結した幕府に、松陰も激しく憤る。ついには、倒幕まで宣言する。実力行使に出るべく、老中間部詮勝の暗殺を松下村塾の塾生にはかるとともに、それに必要な武器弾薬の貸与を藩当局に願い出た。間部は井伊の指令を受け、京都で弾圧の指揮を取っていたからである。

 驚愕した藩当局は、松陰を再び野山獄に入れてしまう。安政5年も終わろうとする12月26日のことであった。松陰の過激な行動を放置すれば、長州藩は幕府から危険視されるに違いない。 果たせるかな、翌6年(1859)4月20日、幕府は松陰の身柄を江戸に送るよう長州藩に命じてきた。いうまでもなく、安政の大獄の一環である。

 5月25日、幕命を受けて松陰を護送した駕籠が萩を出立する。1ヶ月後の6月25日、縄目の身の松陰は江戸の長州藩上屋敷に到着した。

 幕府の評定所に最初に呼び出されたのは7月9日のことだが、松陰には2つ嫌疑が掛けられていた。京都で捕縛された小浜藩士梅田雲浜と親密な関係だったのではないか。御所内で発見された落し文の主ではないかの2点である。

 一方、松陰は間部暗殺計画の件で召喚されたと思い込んでいた。実は幕府はその計画の存在などまったく知らなかったのである。そして梅田雲浜と落し文の件は吟味の結果、嫌疑が晴れてしまう。

 ところが、拍子抜けしたのか松陰は流罪に相当する罪を2つ犯したと自ら申し立てる。尊攘派公家大原重徳の長州下向計画と老中間部の襲撃計画だ。

 後者の間部の件については、さすがに暗殺計画とは申し立てなかったものの、寝耳に水だった担当の奉行たちは仰天・幕府最高首脳部の襲撃計画だから当然だろう。長州藩邸に戻ることは許されず、そのまま伝馬町の牢屋敷に送られて吟味続行となった。

 5年前、アメリカ密航をはかった際に投獄されたのも同じ伝馬町牢屋敷。だが、今回は二度と萩に帰ることはなかった。

 

2日でしたためた遺書

 筆まめだった松陰は、獄中から高杉晋作たち弟子に向けて何通も手紙を出している。一連の手紙を読むと、10月16日の吟味までは、死罪に処せられるとはまったく考えていなかったようだ。

 間部襲撃計画を自白したことを、さほど深刻には考えていなかったのである。なぜなら、初回の吟味こそ厳しかったものの、その後の吟味は打って変わって穏やかなものだったからだ。国元に送還され、以前のとおり塾を主宰できるのではないかとまで楽観視していたほどである。

 だが、吟味側の奉行たちは松陰の自白を重く受けとめていた。間部襲撃計画の報告を受けた井伊は松陰を非常に危険視し、極刑に処す方針を固める。

 運命の10月16日がやって来た。評定所に呼び出された松陰は、奉行に署名を強要された口書の内容から、幕府が間部襲撃計画を重く受けとめていることを悟った。極刑は免れられない。

 この日から、松陰は身辺の整理に取り掛かりはじめる。もう、時間はさほど残されていなかった。20日には、父百合之助・叔父玉木文之進・兄梅太郎宛に書状をしたためている。後に「永訣の書」と称されることになる家族宛の遺言だ。

 同日には、江戸にいた門下生の飯田正伯と尾寺新之丞に処刑された後の遺体処理を依頼する書状。同じ頃には、「諸友に語〈つ〉ぐる書」もしたためた。

 生きて再び、萩に戻ることはできない。文字で書き残すことでしか、家族や弟子たちに自分の思いを伝える道は残されていなかった。

 そして25日、松陰は門下生たちにあてた遺書の執筆に取り掛かる。「留魂録」である。松陰は数多くの著作で知られるが、まさしく最後の著作。それも26日夕方には書き上げるという速さであった。

 翌日に迫った死期を知っていたかのように、わずか2日で、魂を込めた思いの丈を言葉にした。

 死罪の判決が下れば、即刻執行されるのが当時の習い。いつ、評定所から呼び出されて死罪を申し渡されるかわからない。だから、読む者に切迫感が伝わってくるのだ。「留魂録」とは、松陰の鬼気迫る気持ちが凝縮されている題名なのだ。

 16ヶ条から成る『留魂録』を、松陰は念のため2冊作成した。1冊は飯田正伯たちを通して萩に届けられ、門下生の間で回し読みされたが、しばらくして消息不明となってしまう。

 もう1冊は牢名主の沼崎吉五郎が保管し、明治に入ってから、同じく門下生の野村靖のもとに届けられた。現存しているのは、こちらの『留魂録』である。

 

<著者紹介>

安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)

歴史家、文学博士(早稲田大学)

1965年、千葉県生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業、早稲田大学文学研究科博士後期課程満期退学。
江戸をテーマとする執筆・講演活動を展開。JR東日本大人の休日・ジパング倶楽部「趣味の会」、東京理科大学生涯学習センター、NHK文化センターなど生涯学習講座の講師を務める。
主な著書に『西郷隆盛伝説の虚実』(日本経済新聞出版社)『幕末維新 消された歴史』(日経文芸文庫)『山本覚馬』(PHP文庫)などがある。


<書籍紹介>

30ポイントで読み解く
吉田松陰『留魂録』

安藤優一郎著

本体価格680円

吉田松陰が処刑される直前、松下村塾の門下生へ残した『留魂録』。幕末志士のバイブルとなった「魂の遺書」を30ポイントで読み解く!

 

 

 

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