なぜ中国はいつまでも近代国家になれないのか?
2016年01月11日 公開 2023年01月11日 更新
『なぜ中国はいつまでも近代国家になれないのか』より
「近代」を葬った中国人、超克した日本人
日本は近代を「超克」した
ちょうど本書の執筆にかかっている2015年10月初旬、北里大学特別栄誉教授の大村智氏ら3氏が2015年のノーベル賞「生理学・医学賞」を受賞したとのニュースが飛び込んできた。受賞を受けての記者会見で、大村教授はこう語った。「私の仕事は微生物の力を借りているだけのもので、私自身がえらいものを考えたり難しいことをやったりしたわけじゃなくて、すべて微生物がやっている仕事を勉強させていただいたりしながら、今日まで来てるというふうに思います」
「私の仕事は微生物の力を借りているだけだ」という大村教授の名セリフを聞いたとき、テレビの前に座っている私は大きな感動に包まれたことを今でも鮮明に覚えている。自分の研究対象となるちっぽけな存在の微生物にたいしても、上から目線ではなく、むしろ感謝の意を込めて「力を借りた」と言う─、何という謙虚の精神の表れなのか。
このセリフを聞いたときの感動は私の心の中でしばらく続いたが、後になってよく考えてみると、微生物にたいする大村教授のこのような謙遜な態度は、まさに「近代の超克」という意味合いにおいての日本独特の精神を端的に現しているのではないかと思い至った。
いわば「近代」を形づくる要素の一つは、まさに近代的科学技術の発展であるということは言うまでもないが、近代的科学技術というものは、「人間の理性」にたいする無上の信頼と「人間中心」という観念の確立から始まるものである。理性をもつ人間が森羅万象の中心となって、自然万物を自由自在に観察したり操縦したりしてそれを人間のために利用するというのは、自然科学と技術の成り立つ基本となる精神である。その際、自然万物を観察したり弄ったりする人間が森羅万象の頂点に立っていることは自明の公理であり、「神様の下では人間が一番偉い」というのは、まさに西洋流の近代文明の基本的考え方であった。
このような考え方が確立されているからこそ、自然科学が飛躍的に発展して人間社会に多大な便利さと裕福さをもたらしたが、その反面、まさにこのような考え方から「人間の傲慢」という「近代の持病」が生まれてきて、結果的には自然環境の破壊などの現代的問題を生み出すに至ったことは周知のとおりだ。
しかし日本人はある意味では、この「近代の持病」を見事に超克している。もともと日本には、「八百万の神」という言葉が現しているように、自然万物のすべてに神様が宿るという独特の宗教観・世界観がある。そしてそれが現代になっても脈々と受け継がれている。このような世界観から生み出されるのはすなわち、森羅万象すべてにたいする人間の謙遜と感謝の姿勢であろうが、前述の大村教授の発言は、まさにこのような日本的な「人間姿勢」の表れであろう。
その一方、古来からの日本的精神を心の中にもちながらも、大村教授のような科学者は近代的科学精神をも十分に持ち合わせている。だからこそ、ノーベル賞に値するほどの科学研究の業績を挙げているのだ。つまり大村教授は、近代的科学技術の先端を走っていながら、古来よりの日本的心を受け継いでいる。そしてこのような形で近代科学の持病である「人間的傲慢」を見事に超えているのである。
大村教授の姿勢から見えたのはまさに、「近代」というものにたいする日本人の「超克」だった。