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生き方

黒柳徹子 子どもたちへのまなざし

100年インタビュー『本物には愛が。』より

2016年03月14日 公開 2016年03月15日 更新

黒柳徹子 子どもたちへのまなざし

 ──ユニセフの活動も長いですよね。

 黒柳 はい。1984年からです。この地球には、本当に苦しい生活をしてる子どもたちがいてね、年間1400万人もの子どもが、何の手も掛けられずに死んでいくというようなときだったんですね。インドで子どもが死ぬ一番の原因は、破傷風だったんですよ。予防接種一本でかからないで済むのに。それで、死にかけている破傷風ばかりの子どもがいる病院に行ったんですね。貧しい子が行く病院に。

 そうしたらみんな高熱が出て、止まらないから体がやせちゃって、手当てをしていないからそのまま死ぬっていう感じです。あと筋肉が硬直して光が当たると痙攣を起こして、体がそっちゃうという病気です。だから部屋を少し薄暗くしたりして。

 それで10歳ぐらいの男の子だったんですけど、大きな目を開けて、私のことを見ていたんですね。可愛い目で。私、小さい声で、「あなたね、お医者さんも一生懸命やってくださっているから、あなたも元気で頑張ってちょうだい」って言葉をかけたんです。そうしたらね、「ウウウー」と、のどの奥で何か言ったんですね。筋肉が全身硬直しちゃって、ものも言えないんだっていうことがわかったんですね。看護師さんに「何て言ったんですか?」っ聞いたら、「あなたのお幸せを祈っています」と言っていますって。死にかけている子どもがです。そのときにね、何て子どもって清らかなんだろうって。自分が死ぬくらい苦しいのに、自分に優しい言葉をかけてくれた人に、あなたのお幸せを祈っていますなんて、これ、子どもじゃないと言えないなって思ったんですよ。

 最初に行ったタンザニアでは、村長さんが「黒柳さん、これだけは覚えて帰ってください。大人は死ぬとき、痛いとか苦しいとかいろんなこと言うけど、子どもは何も言わないんです。まわりの大人を信頼して死んでいくんです」って。私、子どものことをずいぶんわかっていると思ったのに、子どものことをわかっていなかったなって。それは初めのころだったんですね。だから、子どもたちのために働く仕事をずっとやっていこうって思いました。

 ──おでかけになる場所が、干ばつとか、内戦とか、殺戮の嵐とか。道を行けば地雷がある。そこまでして行かれる、これはどうでしょう?

 ユニセフという国連児童基金から任命されたことが1つはあります。もう1つは、私がそういうところに行って、それを報道することによって、みなさんがちょっとでも関心を持ってくださればいいじゃないかって。人間って生きているときに1人でも2人でも、人間を助けることはなかなかできないですよね。そういうことで、少しでも子どもたちのことを知ってもらって、子どもたちのためになる。そういうことのために働ければ、と思っているので。あんまり大変って思わないんですよ。

 ──怖いだとか、ためらう気持ちだとかってないですか?

 何かあったら、そのときはそのときでね。戦争を通ってきた人間って、そういうところがあります。いつ死ぬか、わからなかったんですから、小学生のときから。それとやっぱり、飢えたこともあります。私も栄養失調でしたから。

 それから親のいないのがどんなに寂しいかとか、そういうことがわかるので。

 こういう子どもたちを見て、やっぱり少しでもね、子どもたちと親善するのも、親善大使の役目ですから。

 ──先ほどお話を伺ったトモエ学園での校長先生とのやり取り。「やってあげなさい」ではなくて、「みんな一緒なんだよ」という。まさにこのユニセフの活動も一緒ですね、スタンスが。

 ええ、ユニセフで行くときもみんなで一緒に、やっていきましょうという気持ちですから。

 ──トットちゃんの中に出てくる「みんな一緒だね!」というあの目線ですね。上から何かやってあげるんじゃなくて一緒に。

 そうです、本当に、一緒にやっていくということが大事だと思います。

 それから、自分のできる範囲内でやることも大事なんですよね。あるところ、すごいことをやっちゃってもいいんですけど、継続してやっていくことができないと。東日本大震災の場合は、ものすごい長い間みんなでやらなきゃいけないですから、やっぱり継続してやっていくということが大事だと思っています。すごい活動をしなくても、ずっと長く活動ができればいいと思っています。

 


著者:黒柳徹子

東京乃木坂生まれ。大田区の洗足池の近くで育つ。トモエ学園から英国ミッションスクールの香蘭女学校を経て、東京音楽大学声楽科を卒業。絵本や童話を上手に読めるお母さんになりたくてNHK放送劇団の試験を受け合格。テレビの一期生となり『ヤン坊ニン坊トン坊』『魔法のじゅうたん』などの子ども向け番組に多く出演。独特の個性でラジオ、テレビで活躍する。その間、文学座附属演劇研究所、ニューヨークのメリー・ターサイ演劇学校などで学ぶ。1979年アメリカろう者劇団(ナショナル・シアター・オブ・ザ・デフ)の日本招来に協力し、日本各地で共に手話公演する。81年『窓ぎわのトットちゃん』を出版。総部数760万部を超え、その印税で「社会福祉法人 トット基金」を設立。プロのろう者の劇団を運営。84年アジアで初のユニセフ(国連児童基金)の親善大使に任命され、以後アフリカやアジアの国々を訪れ、現地の子どもと触れ合う活動を現在も続けている。83年NHK放送文化賞受賞。2003年勲三等瑞宝章を受章。テレビ朝日系列『徹子の部屋』は、2011年同一の司会者による番組の最多放送回数により、ギネス世界記録に認定される。2015年放送開始40年目に突入。主演舞台に『想い出のカルテット~もう一度唄わせて~』『33の変奏曲』『マスター・クラス』『幸せの背くらべ』『レティスとラベッジ』『喜劇キュリー夫人』ほか。
著書に『トットチャンネル』『トットちゃんとトットちゃんたち』『不思議の国のトットちゃん』『小さいときから考えてきたこと』ほか。『窓ぎわのトットちゃん』は英語をはじめ世界35カ国に翻訳されている。

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