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なぜ、西洋でジャポニスムが生まれたのか?

平松礼二(日本画家)

2016年03月24日 公開 2024年12月16日 更新

なぜ、西洋でジャポニスムが生まれたのか?

PHP新書『モネとジャポニスム』より

 

いつの時代もオリジナルは人びとを興奮させる

 一般にジャポニスムとは、19世紀後半から20世紀初頭の欧米における「日本趣味」のことを指します。フランスを例に取りますと、パリの人びとは団扇や扇子を装飾品として壁に飾ったり、着物をガウン代わりに着ている人もいて、芸術面だけでなく、生活のなかにもジャポニスムは生きていたようです。

ジャポニスムの前にはいわゆる中国趣味=シノワズリーのブームがありましたから、19世紀から20世紀にかけて、西洋の人びとが遠く東洋の文化に興味を示していたことは確かでしょう。なかには、ジャポニスムとシノワズリーをごっちゃにしていた人もいたようです。

 中国は日本と違い、欧州とは陸続きです。人や物の行き来ができるので、つねに文化の交流があって当然だと思います。しかし、日本は鎖国を続けている島国。一部、オランダ貿易を通じて西洋に渡った品物もありましたが、多くの文化的情報が外に出ていませんでした。

 鎖国が解けて、日本の情報が大量に欧州にたどり着くとともに、ものすごい勢いでジャポニスムが始まったのです。それはシノワズリーをいとも簡単に凌駕してしまう、勢いのあるものでした。いまでも欧米では、美術館などでジャポニスムの影響を受けた絵が見られますが、シノワズリーに関してはほとんど見ることができません。それひとつ取ってみても、ジャポニスムの嵐の大きさが想像できます。

 なぜ、西洋でジャポニスムが生まれたのでしょう。

 それについては諸説ありますが、大きく分けるとふたつの説があります。私はこのふたつが絡み合って複合的に影響を与え合っていたのではないか、と思います。

 ひとつには、それまで鎖国を続けてきた日本が開国したことがあります。

 1854年の開国(日米和親条約の締結)前後から、日本の美術工芸品は大量に欧米に渡っています。各種の陶芸品から扇子、団扇などの日常品まで、その種類はかなりのものだったようです。もちろん、浮世絵や屛風絵などの琳派の作品も輸出されていたでしょう。輸出された美術工芸品の数の詳細はわからないのですが、そうとうな数だったと思われます。そのひとつに『北斎漫画』がありました。本格的にジャポニスムに火がつく前から一部の画家のあいだでは『北斎漫画』が話題となり、ジャポニスムは熱い支持を受けていたといいます。

 こうした輸出物としての浮世絵以外にも、多くの浮世絵が欧州の地を踏みました。いまでこそ浮世絵は非常に高価な芸術品と考えられていますが、江戸時代には、いわゆる芸術品として世に出たものはごくわずか。多くのものが大衆文化として発展していました。墨で下絵を描いたものを版木に彫り、その版木を刷ってでき上がる浮世絵は、大量生産が可能です。

 多くのものが出回るので、見てすぐに捨てられたものも少なくなかったと思います。そうしたなかで、浮世絵は輸出された工芸品や陶芸品の包み紙として、欧米に渡ったものも多かったようです。ちょうど現代の引っ越しで荷物の茶碗などが割れないように新聞紙でくるむ、その感覚で、浮世絵が包装紙代わりに使われていたのです。

 実際、モネはル・アーブルで包み紙にされていた浮世絵を見て大きな影響を受けていますし、画家名ははっきりしませんが、パリの骨董屋である作家がやはり包み紙にされていた浮世絵に衝撃を受けたという話もあります。

 ジワジワと浮世絵に注目が集まるなかで、1862年にはドソワ夫妻による極東美術品店「支那の門」が開店しています。ジャポニスムを求めて、そこに集う画家や作家も多かったようです。こうしたいくつもの出合いが、のちに印象派の画家たちのジャポニスムに続いていくわけです。

 もうひとつには、1867年に行われたパリ万国博覧会の影響があります。

 日本はこの万博に初めて参加します。想像してみてください。当時の日本は幕末、西洋風のスタイルはまだ移入されていない時代です。参加した幕府や藩の要人たちは、ちょんまげに羽織、袴。重たい大小の二本差しや印籠を提げて、万博会場を闊歩します。身体は小さいながらも、背筋をしっかり伸ばし、胸を張り、眼光鋭く、足を外開きに、列をつくって歩く姿は、それだけでもそうとうなインパクトだったでしょう。しかも身に着けているものは、刀をはじめ、すべてが目を見張るほど凝ったデザインの精緻精巧なものばかり。それは動く美術館、動く工芸館のようだったと想像できます。

 また、日本のパビリオンには茶屋を造り、江戸・柳橋の売れっ子芸者衆が艶やかにお客様を接待したといいますから、彼女たちの髪型や着物なども、西洋の人びとに大きな驚きを与えたと考えられます。これぞまさに“江戸の粋”。その様式美にパリジェンヌたちは目を見張ったに違いありません。

 いつの時代もそうですが、オリジナルは多くの人びとを興奮させます。日本人が身に着けている精密にして美しい着物や工芸品や髷などの様式美は、間違いなく西洋人に大きな興奮を呼び起こしたでしょう。そして、万博で紹介されたもののなかに、浮世絵や琳派の作品もありました。そう考えると、日本のオリジナリティの素晴らしさに世界の人びとが感嘆したという事実が浮かび上がります。そして、それは現在に生きる私たちの誇りをくすぐります。

 こうした経緯を眺めて、私は思います。それまで一度も目にしたことがなかった浮世絵や琳派の作品を観た西洋の画家の驚きを。それは私がオランジュリー美術館でモネの『睡蓮』の連作を観たときと同じ、いやそれ以上の衝撃だったのではないでしょうか。

 浮世絵が見せる大胆な構図、自由な色使い、伸びやかでいて繊細な筆使い─。琳派が奏でるきらびやかな日本の美─。彼らが一度も観たことのない絵がそこにありました。すべてが、いままで自分たちが正しいと信じていた絵画の手法と異なるのです。そして、それを間違っていると感じるどころか、それに惹かれていってしまう画家の眼。それこそが、つねに新しいものを欲し、いままで自らが創り上げたものを意図的に壊すことで、自分の世界を広げ続ける「画家の眼」そのものなのです。

 

平松礼二(日本画家)

1941年、東京都生まれ。愛知県で育つ。89年、第10回山種美術館賞展・大賞を受賞。94年、多摩美術大学造形表現学部教授に(~2006年)。2000年、MOA美術館大賞を受賞。2000~10年、月刊誌『文藝春秋』の表紙画を担当。現在、無所属。一般社団法人日本美術家連盟理事。16年より、順天堂大学国際教養学部客員教授。平松芸術は従来の日本画の枠にとどまらない普遍的な世界的絵画の世界に到達しており、「平松はモネの視点に日本の伝統美を加え、新たな世界を見せてくれる画家」だと、海外で絶大な人気を誇る。画集などのほかに、共著で、千住博氏との対談集『日本画から世界画へ』(美術年鑑社)がある。

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