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江戸のスーパーウーマン 吉原で花魁と遊ぶにはいくらかかる?

2016年09月29日 公開 2024年12月16日 更新

堀口茉純

 

吉原誕生

勝山吉原は江戸の特殊な人口事情から生まれた特殊な町だ。

江戸の町は、徳川家康の江戸入府によって初めて開発が始まったフロンティアだ。幕府が開府すると、参勤交代の大名や侍たちが全国各地から押し寄せ、商工業者も続々と誘致。宗教的拠り所となる寺社地も多く作られてゆく。城下町の整備は急ピッチで進み、土木人足が大量流入した。つまり、男ばかりがあふれていたのである。

このころの正確な人口統計はないが、圧倒的な女性不足であったことは想像に難くない。

その証拠に、女子が誘拐されて遊女として売られるといった事件が多発。江戸のそこかしこに売春宿が乱立したし、遊女を置いた銭湯=湯女風呂のような風俗店が大流行し、風紀の乱れは甚だしかったという。こうした場所は金を払えば長期滞在ができることから、犯罪者の潜伏先にもなりやすく、治安も乱れる。

江戸の女性不足は深刻な社会問題だったのだ。

そこで、遊女屋を代表して、庄司甚右衛門という男が遊郭の建設を幕府に提案した。

遊郭というのは、公娼(公式に営業を認められてた遊女)を政治的な意図を持って一カ所に集めておくエリアのこと。周囲を堀や土塁で囲んだため、城郭の郭に見立て、遊郭と呼ぶようになった。歴史的には豊臣秀吉が京都、大坂に造った先例がある。

遊女屋にとっては幕府公認という箔がつき、公式に営業権が得られて悪質な同業者と差別化できるというメリットがあった。幕府にとっても、市中に散在する遊女屋を一カ所にまとめることで管理がしやすくなり、社会問題を収束させられるというメリットがあった。ウィンウィンの関係である。

こうして元和4年(1618)、江戸唯一の幕府公認の遊郭が、日本橋葺屋町(現在の人形町のあたり)に誕生。このあたりは一面に葦が生い茂っていたところから「葦原(あしわら)」と呼ばれていたのだが、「あし」は「悪し」と音が同じで縁起が悪いため、「よし」と読ませて字も「吉」の字を当てて「吉原」と呼ばれるようになったという。

江戸城から間近の好立地だったが、さすがに御城の目の前に遊郭があるのも……ということで、明暦の大火を期に浅草田圃に移転した。この経緯から、日本橋の吉原を元吉原、浅草田圃の吉原を新吉原と呼んで区別する。われわれが時代劇や小説などでなじみ深いのは、新吉原の方だ。

新吉原は周囲を田畑が囲んだ、一般世界とは隔絶した場所にあった。江戸の中心地から遠く北に離れていたため「北国」とも呼ばれた陸の孤島は、仕事に疲れた殿方が日常を離れてハメを外すには、恰好のロケーションといえる。

 

お江戸のスーパーウーマンと遊ぶ覚悟は?

太夫クラスの花魁は、“傾城”(けいせい)の別名からもわかるように、一国の城が傾くほどのケタ違いに高額な揚げ代がかかった。しかし、時代が下るにつれて、吉原の客層はハイクラスな武士から富裕な町人へと変化。遊女にも、質より手軽さが求められる時代になり、太夫の称号を持つ花魁は、宝暦11年(1761)を最後に絶滅してしまう。

ただ、高位の花魁が高嶺の花であることは変わらなかった。

『吉原細見』という当時の吉原ガイドブックによると、太夫なきあとの最高位である新造つき呼出の揚げ代は、金一両一分。現代だと10万円ちょっとの感覚だ。

これは、いわば指名料で、馴染客として認識されて同衾するためには3回通う必要があり、その都度、座敷を盛り上げるための芸者の出張費、飲食代、船や駕籠などの交通費が別途かかる。めでたく3回目を迎えたあかつきには馴染金(花魁へのチップ)、総花(従業員全員へのチップ)も気前よく支払わなくてはならないので、車1台購入するくらいの出費は覚悟しなければならない。

また、月見や花見などのイベントdayは、紋日といって料金が2倍になったから、継続して通うなら、一戸建て購入資金程度が最低限必要だった。

 “をかしさは 母も紋日を 苦労がり”

という川柳があるように、吉原にハマったドラ息子を持つ親は、そうとう苦労したらしい。

遊ぶ金欲しさに家の金に手をつけて

 “盗人を とらえてみれば 我が子なり”

なんてこともあったようだから、生半可な気持ちでは、吉原通いはとても続けられなかった。

トップ花魁と遊ぶなら、それ相応の甲斐性と覚悟が必要なのだ。

また、花魁の華麗な着物の着こなしや髪形は、浮世絵によって発信され、女子のファッションリーダー的存在でもあったことも忘れてはならない。

彼女たちは単に異性から性的な対象として見られていただけでなく、文化的教養があり、芸能をマスターし、流行ファッションを生み出して、同性からも一目置かれていた、お江戸のスーパーウーマンなのである。

花魁とかむろ
《桜を見下ろす遊女屋の二階桟敷で優雅に客を待つ花魁》

周りにいるのは禿(かむろ)という見習いの子供たち。彼女たちが自分がついている遊女の話をするときに「オイラのところの姉さんが~」といっていたのが「おいらの」→「おいらん」となり、花(美女)の魁(さきがけ、かしら)という字を当てて遊女の代名詞になったとか。

※PHP新書『江戸はスゴイ』 はじめにより抜粋編集

著者紹介

堀口茉純(ほりぐち・ますみ)

お江戸ル/歴史作家

東京都足立区生まれ。明治大学在学中に文学座付属演劇研究所で演技の勉強を始め、卒業後、女優として舞台やテレビドラマに多数出演。一方、2008年に江戸文化歴史検定一級を最年少で取得すると、「江戸に詳しすぎるタレント=お江戸ル」として注目を集め、執筆、イベント、講演活動にも精力的に取り組む。著書に『TOKUGAWA15』(草思社)、『UKIYOE17』(中経出版)、『EDO-100』(小学館)、『新選組グラフィティ1834‐1868』(実業之日本社)がある。

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