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ミス平安といえば小野小町? いや、常盤でしょう

2017年02月08日 公開

井上章一(国際日本文化研究センター教授)

奈良時代からアイドルはいた?

もちろん、王朝はそれ以前から、奈良時代から美人あつめには心をくだいてきた。たとえば、大化改新の詔(646年)は、各地の役人に采女(うねめ)をさしだすようもとめている。こんなふうに。

「采女は郡少領以上の姉妹及び子女の形容端正なるものを貢げ」

郡にいるあるクラス以上の子女から、「端正」な顔の女をみつぎなさいという。

あからさまな面喰いぶりを、朝廷は法制化させていた。

大化改新については、その実行をうたがう研究者も、少なくない。だが、養老令(757年施行)の存在を否定する者は、まずいないだろう。じつは、その条文にも、こうしるされている。

「采女を貢ぐは、郡少領以上の姉妹及び女の形容端正なる者を、皆な中務省に申して奏聞せよ」

この采女たちには、天皇の給仕係、あるいはホステスとなることが、期待されていた。そして、あつめられた美貌の少女たちは、宮廷でちょっとしたスターになっている。その艶姿は、『万葉集』でもしばしばうたわれた。

平安時代には、王朝と在地各所をつなぐ絆が、弱まりだす。天皇をかこむ女たちは、中央貴族の娘でしめられるようになった。そのため、地方からおくられてくる采女は、スターらしさをうしないだす。ほんらいの給仕係に徹する、おさんどんめいた存在になっていった。

かわって、王朝内でアイドルとしてかがやきだしたのは、五節の舞姫たちである。中央貴族の娘が五節会のたびに、舞を披露する。そんなもよおしが、宮廷では美人鑑賞の娯楽として、たのしまれた。『古今和歌集』にも、そのはなやぎをうたった歌が、おさめられている。

平安時代までの王朝は、自らが美人あつめにのりだしていた。内教坊という、そのための組織、言ってみれば芸能プロダクションを公的にもうけている。業者への外注はあったかもしれないが、自前の努力もおこたらなかった。

そのありようは、北朝鮮のよろこび組を、どこかほうふつとさせなくもない。私は金王家(?)をとりかこむ彼女たちの姿に、平安王朝のありし日を幻視する。あそこには、東アジア的な宮廷文化がのこっていると考えるのだが、どうだろう。

 

※本記事は井上章一著『京女の嘘』(京都しあわせ倶楽部)より一部を抜粋編集したものです。

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