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ミス平安といえば小野小町? いや、常盤でしょう

井上章一(国際日本文化研究センター教授)

2017年02月08日 公開 2024年12月16日 更新

ミス平安といえば小野小町? いや、常盤でしょう

 

常盤 ─ミス平安は、この人でとどめをさす

日本美人史上に名をとどめる、その筆頭は、なんといっても小野小町であろう。

彼女の美貌は、クレオパトラや楊貴妃とならび称されるまでになっている。

とはいえ、小町を世界三大美人に登録しているのは、日本人だけだろう。海外で小町の名にしたしんでいるものは、そういまい。私じしんは、この世界三大美人という考え方のなりたちじたいに、興味をもっている。いったい、誰がああいうことを言いだし、なぜ日本ではひろまったのか。答えはまだ見えぬが、いつかはつきとめたい。

いずれにせよ、小町の事跡はまことにあやふやである。『古今和歌集』に18の歌がおさめられているだけで、あとは何もわかっていない。どういう美人だったのかも、つきとめきれないのである。極端に言えば、ほんとうに美人だったのかどうかも。

だから、私の美人評においても、小町の点は低くなる。王朝時代に話をかぎっても、もっと具体的にその足跡が読みとれる美人へ、目をむけたい。たとえば、平安末期を生きた常盤に。

 

史上初の美人コンテスト?

私の見るところ、常盤は日本美人発掘史上において、画期的な位置をしめている。彼女の登場するころから時代はうごきはじめたとさえ、言えなくもない。

常盤は、平安時代に源氏の総大将である源義朝とむすばれた。第一夫人ではなかったが、3人の男児を彼とのあいだにもうけている。今若、乙若、そして牛若の3人を。そう、のちに源義経となる牛若丸を産んだ、常盤はその母なのである。

出自はよくわからない。京都およびその周辺にいた庶民の娘が、王朝の九条院がひらくサロンに出仕した。そこから宮廷生活をはじめたことだけが、デビュー前で判明していることのすべてである。

この九条院が、常盤をサロンへむかえいれるきっかけが、興味深い。『平治物語』という、平治の乱(1159年)をえがいた読み物に、こうある。

「中宮の御かたへ 人のみめよからんをまゐらせんとて、九重に名を得たる美人を、千人めされて百人えらび、百人が中より十人えらび、十人の中の一とて、此の常葉をまゐらせられたりしかば、唐の楊貴妃、漢の李夫人も、これにはすぎじものを……」(岩波文庫版)。

中宮、すなわち九条院のところへ、美しい女をとどけたい。だから、宮中でも目をつけていた千人の美人からベストワンをえらんだ。それが、常葉(常盤)であるという。楊貴妃あたりより美しかろうと、彼女は評されていたのである。

ほんとうに、千人の娘をあつめたのかどうかは、うたがわしい。それだけの数におよぶ娘が、宮廷で知られていたかどうかも、疑問である。もし、じっさいにこういうことをやったのなら、史上初の美人コンテストだと言える。しかし、『平治物語』以外に、この美人えらびをしるした文献はない。鎌倉時代のなかごろに書かれたこの読み物を、歴史の史料とすることはできないだろう。

ただ、物語作者がこういう美人えらびの形を想いついていることは、あなどれない。器量良しとして聞こえた町娘から、えりすぐりの者を宮廷に出仕させる。美貌で宮廷の末席をいとめる娘、美しさで身分をこえる女性が、このころからあらわれた。『平治物語』の記述は、そんな時代相にささえられているのだと、私は考える。

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