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社会

「自分が盾になって撃たれるつもりだった」…自衛官の心意気

桜林美佐(防衛ジャーナリスト)

2017年05月26日 公開 2017年05月30日 更新

問題視すべきは教育訓練環境の不足

なお、「駆けつけ警護」が可能になったのは、南スーダンPKOの活動からだ。

PKOの場合はあくまでも国連の指揮下に入り、前述したように、わざわざ治安任務がメインではない自衛隊に(南スーダンでの活動の中心は道路などをつくる施設部隊)救援の要請が来る蓋然性は低い。また、そもそも行動制限がかかった場合は、日本が「駆けつけ警護」をしたいと言っても、勝手な行動は許されるものではない。

かりに現地で何らかの事案が発生し、邦人輸送などを期待するならば、別途、日本から部隊を進出させるのが理であるが、そのためには現地政府の許可や地位協定の締結など手続きが必要になり、容易ではないだろう。

とにかく、そんなPKOの事情も知らずに勝手な議論をしてきたのが、わが国のお粗末な実情なのだ。本来はもっとまともな議論をしたかったに違いないが、それをさせてもらえなかったのだから仕方がない。

そして、このような「駆けつけ警護」に対する反論のなかでも、とくに的外れだと思うのは、次のような「自衛隊員の声」を反対の根拠にしているものだ。

「海外派遣から帰ってきた後も、銃弾の音が頭から消えず悩む知人もいる」

「(射撃訓練で)標的を円形から人の形にすると、とたんに成績が落ちる隊員もいる」

「撃てない隊員もいるだろうが、そのときになってみないとわからない」

だが、自衛官、とくに陸上自衛隊の隊員にとって小銃は「魂」であり「誇り」である。

にもかかわらず、まるで「銃は悪い道具」であるかのような前提になっている。

たしかに銃による犯罪があるから、銃は怖い。しかし、包丁による殺人が起きたからといって、それを商売道具にしている板前さんから刃物を取り上げたりしないのと同様に、「引き金を引けるのか」と自衛官に対して問うのは失礼だという感覚が少なからぬ日本人にはないことが、私はとても残念だ。

それはともかくとしても、むしろ問題視すべきは、射撃の回数が年に1回程度しかないといった、教育訓練環境の不足である。

実弾を撃つ現場にいれば、音が脳裏に残り、銃撃戦の夢を見たりすることは驚くことではない。人形の標的の中で指定された的だけを撃つ訓練は難易度が高く、成績が落ちるのは当然だ。それらを克服するために、数百~数千の弾を常に撃つべきなのである。

それでも精神的に耐えられないとか、うまくできないようならば、その人は自衛隊に相応しくないのであり、辞めるか職種を変えるべきだろう。何しろ、「そのときになってみないとわからない」などということは、あってはならないのだ。

そのために、訓練はもちろん、事前の準備を万全にすることが不可欠であり、まして「選挙があるから」などと政治日程に振り回されて訓練ができないなどということは、言語道断である。

今回の改正は、「訓練ができるようになる」ことも大きな一歩なのだ。実際に「駆けつけ警護」をするかしないかにかかわらず、訓練を充実させることは極めて重要だと私は思う。

 

※本記事は、桜林美佐著『自衛官の心意気』(PHP研究所)より、その一部を抜粋編集したものです。

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