「名君」とは何か
2017年09月26日 公開 2024年05月28日 更新
※本記事は、瀧澤中著『「江戸大名」失敗の研究』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
上流を目指す小舟
「慎重で、控え目な方であり、およそ調子にのるとか、お天狗になるとかいうのと反対な方」「固より長所も短所もおありになる。ただ一つ、何人にも言い得るのは、殿下は義務心の強い方であること」
これは、慶應義塾塾長で東宮職参与だった小泉信三の言葉である(『平生の心がけ』)。小泉はまだ19歳の学生であられた今上陛下(当時皇太子殿下)にお仕えしており、若き日の陛下のお人柄をこのように表現した。
小泉の言う「義務心が強い」とは、たとえばどれほどお疲れになっていようとも、それが君主としての義務ならば、厭わずに一所懸命なされる様を表している。
なぜ「責任感」ではなく「義務心」、と小泉は表現したのか。
おそらくは、君主の果たすべき役割は「責任」よりも、もっと避けられない宿命的なものと言いたかったのではないか。つまり、人間にとってより過酷な使命を意味していると、筆者は理解する。
もしそれが名君のあり方として正解なのだとすれば、名君とは、「義務」を見事に履行し得た人物に与えられる称号であるかもしれない。
他方。
大名や政治家の中には、大した緊張感も伴わずに安穏と生涯を終えた者もいる。
安穏が、悪いわけではない。
危機を見てなお、危機はないが如く装うことが罪なのである。
そういう者は未来に義務感を持たない。
企業や役所、教育現場、あらゆるところで「いまさえ良ければ」と悲惨な現状を糊塗し、危機に目をつぶり問題を先送りし、面倒を回避する。
危機を意識し改革の狼煙を上げ、衝突を恐れずに前進するのは、滔々と流れる大河の中でひとり小舟に乗って上流を目指すのに似ている。
苦難である。辛苦である。そんなばかげたことを誰がするものか、とも思う。
しかし、与えられた運命の中で必死に義務を遂行し、小舟を漕いで上流を目指した者もいた。名君は、死に物狂いで義務を果たそうと努力した者の中にこそ、見ることができるのではないか。