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保元・平治の乱〜平清盛はどんな時代を生きたのか

川口素生

2011年11月26日 公開 2024年12月16日 更新

保元・平治の乱〜平清盛はどんな時代を生きたのか

PHP文庫 『平清盛をめぐる101の謎』( 川口素生:著 )より 
 

平安時代末期、院政時代を生きた平清盛

平清盛は元永元年(1118)に生まれ、養和元年(1181)に64歳で病没しています。なお、かつては源頼朝が鎌倉幕府を開いた年を建久3年(1192)とし、この年に鎌倉時代がはじまったとする説が支持されていました。しかし、近年は鎌倉時代がはじまったのを、治承4年(1180)とみなす説などがクローズアップされています。

さて、清盛が生まれる約30年前までは、摂関家と呼ばれた公家・藤原氏が国政の実権を掌握していました。摂関家とは天皇の代理である摂政、天皇の補佐役である関白とを世襲する家柄のことですが、摂関家の繰り広げる政治のことは摂関政治と呼びます。            

そういった中、摂関政治に疑問を持った白河上皇(第72代天皇)は、応徳3年(1086)に院政なるものを開始しました。この院政とは上皇が父権に基づき、天皇の上に立って繰り広げる政治形態を指します。具体的には、上皇は御所内に政庁・院庁をもうけ、下級の公家、官僚、あるいは武士などを動員して院宣、院庁下文などの独自の公式文書、命令書を発しました。院宣や院庁下文は時として、天皇や朝廷が発する詔勅、宣旨よりも重要視されました。

そういえば、清盛の生きた時代には白河上皇に続き、鳥羽〈とば〉上皇(第74代天皇)、後白河上皇(第77代天皇)も院政を展開しています。

結果として、院政は応徳3年から治承3年まで、実に90年以上もの長きに渡って、途絶えることなく続きました。現在では、以上のように白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の3上皇が院政を繰り広げた時代のことを、院政時代と呼んでいます。

すなわち、清盛は平安時代末期の、院政時代と呼ばれる時代に生きた訳です。

ところで、抜群の政治力を有していた3上皇も、独自の軍事力は持ってはいませんでした。このため、当初は公家の身辺警備などに当たっていた武士のうち、有力な者が上皇の身辺警護に当たる「北面 の武士」に登用されます。さらに、盗賊、海賊が暗躍した際、大寺院の僧兵などが強訴 を企てた際、さらには叛乱が起こった際などには、上皇は武士を動員するようになりました。そういった段階で院政下で頭角を現すのが、伊勢平氏の平正盛(忠盛の父、清盛の祖父)、同忠盛(正盛の嫡子、清盛の父)、清盛の3代でした。   

そんな中、後白河上皇(当時は天皇)と崇徳上皇(第75代天皇)との対立が、保元元年(1156)の保元の乱に発展しました。この合戦では天皇家のみならず、伊勢平氏や河内源氏でも父と子、兄と弟などの肉親が敵、味方に分かれて戦いましたが、清盛や、河内源氏の源義朝(頼朝 、義経らの父)の奮戦もあり、後白河上皇の側が勝利を収めます。

しかしながら、恩賞が少なかったことにいきどおった義朝は、藤原信頼と手を握り、平治元年(1159)に平治の乱を起こしました。当初、義朝らは御所を占拠し、後白河上皇や第78代・二条天皇を幽閉するなど、優位に戦いを進めます。ただし、油断している間に清盛が態勢を整えたため、結局は義朝は敗北を喫してしまいます。

乱後、後白河上皇の信任を得た清盛は武家出身者としてはじめて、仁安2年(1167)に太政大臣に就任しました。さらに、平氏一門は相次いで高い官位、官職を獲得し、さらに天下六十余州の守(県知事)や知行国主の過半を独占するなど、栄華を極めます。

対外的な面では、この時代には宋国(中国)との貿易が活発化し、同国の数多くの文物がわが国にもたらされた時代でもありました。前後しましたが、肥前神埼荘(佐賀県神埼市付近)や摂津福原(神戸市中央区・兵庫区)などで日宋貿易を推進したのは、誰あろう忠盛・清盛父子です。なお、日宋貿易の結果、同国の物産や文化がわが国に紹介されましたが、その一方でわが国に「銭の病」なる奇病が流行するという弊害もみられました。

この時代の文化は宋国の影響を受けましたが、和歌の分野では藤原定家、西行(佐藤義清)らが登場し、斬新かつ繊細な歌風を確立しています。結果として、定家や西行の和歌は、古代文学から中世文学への橋渡しをした感があります。

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