優秀な中間管理職は 上司に最善の意見具申をする~白井一幸・プロ野球コーチ
2017年11月27日 公開 2024年12月16日 更新
アメリカでのコーチ留学時代に親交があったトレイ・ヒルマン氏のファイターズ監督就任が決定。白井氏もヘッドコーチとして一軍の変革に力を尽くすようになる。
組織改革と人材育成はプロ野球に学べ!
組織に焦点をあてれば相手の心証は気にならない
かつて弱小球団だったファイターズが、2000年代に入って毎年のように優勝を争えるチームになった要因を考える時、やはりトレイ・ヒルマン元監督の存在を抜きには語れません。2006(平成18)年の日本一も、ヒルマン氏の手腕によるところが大きいですし、ファイターズに脈々と受け継がれている「練習は強制されてやるものではなく、各選手がみずから考え、みずから行なう」という方針は、ヒルマン氏がトップとして強く推し進めた結果、定着したものです。トレードなどで他のチームからやってきた選手は、最初はたいてい驚きます。練習時間は短いし、怒声や罵声はないし、みんなのびのびと練習しているからです。
私が二軍監督として育成の改革に取り組んでいた2002(平成14)年の秋、一軍はパ・リーグ5位に終わり、新監督を探していました。当時、球団は、二軍で取り組んでいる改革を一軍でも推し進めようとしていて、それを実行するには外国人でなければ難しいのではないかという意見が出され、候補に挙がったのがヒルマン氏でした。
私がヤンキースにコーチ留学していた当時、マイナーチームの監督だったのがヒルマン氏で、メジャーの選手たちからも一目置かれる特別な指導者でした。また、人への思いやりや優しさも人一倍で、まだろくに英語がしゃべれなかった私を自宅に招き、食事をご馳走してくれました。私が他のコーチとコミュニケーションをとれるようになったのも、ヒルマン氏がなにかと私のことを気にかけてくれたからです。
ヒルマン氏はファイターズの監督を受諾するにあたって、私に「一軍のヘッドコーチとしてサポートしてほしい」と依頼してきました。ようやく二軍が軌道に乗りかけていたので、私は迷いましたが、最後はその申し出を受けることにしました。ただ、私はいずれファームで指導した選手とともに一軍で戦いたいと考えていた人間です。ヘッドコーチとしての役割を全うするには、ヒルマン氏の右腕になりきる覚悟が必要でした。そのため、ヒルマン氏が監督を辞める時には自分もチームを去ることを条件にヘッドコーチを引き受けました。
意識も変える必要がありました。二軍監督が育成のリーダーであるのに対し、一軍のヘッドコーチというのは、監督とコーチ、コーチと選手の間に入る完全な中間管理職で、正直言って私には苦手な仕事でした。自分の考えを前面に出せないポジションですから、やりづらさもあります。けれど、受けると決めた以上は、監督に忠誠を尽くさなければなりません。その忠誠とは、忌憚のない意見を具申し続けることです。そして、監督の決めたことは、たとえ自分の考えと違ったとしても100パーセント遂行する。そうしたことを自分の中でルールとして決めました。そうでないと、一軍のヘッドコーチという難しい仕事は務まりません。
さらに、中間管理職にはある種の「覚悟」が要ります。皆さんの中には、「こんなことを言ったら上司の反感を買うのではないか」あるいは「部下に嫌われるんじゃないか」などと、他人の心証が気になる人がいるかもしれません。でも、皮肉なことに、嫌われないように立ち回るほど嫌われてしまうものです。大事なのは、たとえ嫌われても、上司にとって最善の意見、あるいは会社にとって最も大事なことを伝えることです。自分ではなく、会社や組織に焦点をあてれば、相手の心証など気にならなくなるはずです。
※本記事は、マネジメント誌「衆知」掲載〈白井一幸の組織改革と人材育成はプロ野球に学べ!第2回》より、一部を抜粋編集したものです。