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徳川家康は浅井三姉妹を煙たがり、春日局を使って豊臣に復讐した?

2018年09月06日 公開

八幡和郎(作家、評論家、徳島文理大学教授)

徳川家康
徳川家康像

※八幡和郎著『江戸時代の「不都合すぎる真実」』(PHP文庫)より一部を抜粋編集したものです。
 

関ヶ原で石田三成に味方しなかったのは、北政所より淀殿

石田三成は長いあいだ嫌われ者でした。三成は滋賀県長浜市の土豪出身で、浅井旧臣です。子供のときに、寺に立ち寄った秀吉に見出されました。初めて大名になった秀吉のもとには、福島正則や加藤清正など親戚の少年たちもやってきましたが、学問の素養がある三成は文官としての才能で頭角を現しました。

現代の企業でいえば、零細企業が成長して初めて採用した大卒社員の出来が良かったようなものです。秀吉在世中の三成は、どんぶり勘定だった経費の請求に稟議書や領収書を要求して、営業マンから煙たがられていた「鬼総務部長」といった感じです。

関ヶ原の敗戦ののちには、徳川幕府から反逆者として糾弾されたのは仕方ないとして、東軍についた豊臣恩顧の大名からは余計なことをして豊臣を滅ぼしたと言われ、薩長や上杉なども西軍についたのは三成に騙されたからだと弁解していたので、明治になっても名誉回復されなかったのです。

しかし、吉川英治の『新書太閤記』(1939年、連載開始)あたりから流れが変わり、平成になってからは、映画やドラマでも善玉として描かれるようになりました。

関ケ原

とはいえ、西軍は負けたのですから、三成の責任も重大です。ひとつの原因は、石田三成が“横綱相撲”にこだわったことです。三成は、天下人として号令を始めた信長や秀吉の下でしか働いたことがありませんから、相手を圧倒的な物量作戦でねじ伏せる横綱相撲しか知らなかったのです。

ところが、徳川家康は、今川、武田、北条、豊臣といった、自分より優勢な相手と戦っても負けない戦を得意としてきたのですから、鍛えられ方が違ったので、西軍は有利な状況を生かせなかったのです。

三成が大垣城から出撃して徳川軍に夜襲をかけず、関ヶ原に陣取って受けて立つ横綱相撲を選んだのも、三成のこうした欠点が露呈したものです。

一方、豊臣家の淀殿は中途半端な態度に終始しました。かつては、北政所が東軍、淀殿は西軍と言われていました。しかし、北政所は宇喜多秀家らとともに西軍の戦勝祈願に手を貸していますし、大津城攻防戦では、秘書役の孝蔵主などを派遣して開城勧告を行っています。実家の木下一族も西軍寄りで行動しました。

北政所からすれば、姑の親戚である加藤清正や福島正則より、長浜で家臣となった三成こそが自分の子飼の家臣とも言えます。このころ彼女の周りにいた女性たちも、孝蔵主、大谷吉継の母、三成の娘など近江出身者だらけです。

小早川秀秋に東軍につけと北政所が説得したというのは、春日局の夫である稲葉正成が言っているだけですし、秀秋あてに裏切りを勧めた浅野幸長と黒田長政の書状に「北政所のために東軍で働いている」という一節があるのは、東軍勝利の場合に、西軍に取り込まれている北政所を救うためという意味です。

浅井三姉妹を煙たがり、春日局を使って復讐した家康 >

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