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徳川家康は浅井三姉妹を煙たがり、春日局を使って豊臣に復讐した?

八幡和郎(作家、評論家、徳島文理大学教授)

2018年09月06日 公開 2022年06月07日 更新

小谷城跡
浅井三姉妹が生まれ育った小谷城跡からの風景
(滋賀県長浜市)
 

浅井三姉妹を煙たがり、春日局を使って復讐した家康

関ヶ原の戦いのとき、淀殿は先に秀頼のお守り役である前田利長らが処罰されたときにも放置し、徳川家康が会津攻めに出発するときには金2万両と米2万石を与えて激励したのに、家康に対して挙兵した石田三成には軍資金の提供を拒否しました。形だけ大坂城を押さえた西軍を激励していますが、江戸にある妹の江に配慮したのか煮え切らなかったのです。

浅井三姉妹の次女・初の夫である大津城主・京極高次の周辺も複雑でした。

弟の信濃飯田城主・高知は会津攻めに従軍していたので東軍に付きました。高次は周りが西軍だったので、一緒に北陸へ出征しましたが、家康が西上してくると東軍に寝返り、大津城に籠もりました。高次の姉で秀吉の側室だった竜子も一緒でした。

驚いた西軍は、立花宗茂や毛利軍の一部が園城寺観音堂の高台から大砲で攻撃したのですが手こずりました。結局、北政所の仲介で関ヶ原の戦い当日に開城しましたが、立花宗茂らは戦場に間に合いませんでした。もし、この降伏が少し早かったら、名将として知られる宗茂らも関ヶ原での戦闘に参加していたでしょうし、毛利軍のサボタージュを吉川広家が試みても難しかったでしょう。

浅井三姉妹の絆はたいへん強いものでした。三女の江は、徳川秀忠より前に豊臣秀次の弟である秀勝と結婚しており、完子という娘がいました。この完子を秀忠との再婚のとき、淀殿が養女として引き取って大事に育て、九条家に豊臣家の姫として嫁がせ、結果、豊臣家のDNAは今上陛下にも及んでいます。

江が家光を生んだときは淀殿もたいへん喜んでいますし、千姫も大坂城で大事にされました。秀頼は15歳のときと翌年に正式の側室でもない女性に国松と天秀尼という子供を生ませ、それきりだったのは、成長してきた千姫とのあいだで子づくりに励んでいたからでしょう。もし、子ができたら、男でも女でもいろいろな妥協策の余地ができたでしょうから運も悪かったわけです。

逆に、これは、家康にとって好都合でした。三姉妹主導で中途半端な妥協策をつくってしまうことを、家康は徹底的に恐れていたように見えます。

秀吉の死後に、伏見にいた秀忠と江はただちに江戸へ送られ、淀殿と江が会うことは二度となかったのです。秀忠の知恵袋である大久保忠隣を更迭したのも、江にそそのかされて秀忠が融和的になることを恐れたからでしょう。千姫の輿入れのときも、江は伏見まで見送りについてきたものの、大坂には行かせてもらえなかったのです。

大坂冬の陣では、和平交渉における大坂方の代表は京極高次の未亡人で城内にあった初でした。堀を埋めるという条件は初が受け入れたもので、彼女が騙されて豊臣方に致命傷を与えました。

秀忠と江には、家光と忠長というふたりの男子がいました。聡明な忠長を両親はかわいがりましたが、家康は家光を跡取りにするよう命じました。ただし、最初は家康はふたりを同等に扱い、大坂夏の陣のあとになって決着をつけたのです。それまでは、江に嫌われるようなことは避けたのでしょう。

忠長は、母の死のあと将軍になった兄の家光から嫌がらせの数々を受けて精神を病み、秀忠の死後に切腹を命じられました。家康の送り込んだ乳母、春日局の差し金であることは言うまでもありません。明智光秀の家老・斎藤利三の娘は、三姉妹を煙たがった家康と組んで、関ヶ原でも、忠長の問題でも、豊臣家とその縁者に復讐を果たしたと言っても穿ち過ぎでないでしょう。

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