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澶淵の盟 中国史に平和をもたらした宋代のODA

出口治明(立命館アジア太平洋大学学長)

2018年10月29日 公開 2022年12月08日 更新

歴史上の英雄は和戦論者の秦檜か、主戦論者の岳飛か

南京を都として即位した南宋の高宗は、1129年に杭州(臨安)に遷都しました。そのときの南宋の政府内では、将軍の岳飛を中心とする主戦論者が金に対する徹底抗戦を主張していました。

しかし高宗は和戦論者の政治家秦檜(しんかい)を宰相とします。彼我の戦力を測り、戦いに利あらずと考えていた秦檜は、金と交渉を重ね、1238年に和議を成立させました。

しかし岳飛を中心とする主戦論者たちは、あくまで金との抗戦を主張し、秦檜の平和外交を挫折させようとします。ここに至って、岳飛たちの行動が南宋を滅ぼしかねないことを懸念した秦檜は、一計を案じて岳飛を殺害し、金との和議を具体的に詰めました。

宋は金に対して臣下の礼を取ること。金に銀25万両と絹25万疋を歳貢として贈ること。華北の地は金の領土となり、南宋の領土は北宋時代より半減しました。以上が和議の主要な内容でした。この和議は1141年に結ばれました。「紹興の和議」と呼ばれています。

南宋と金の関係は、1164年に隆興の和議、1208年に嘉定の和議と両国間の紛争によって条約の内容に変更を加えつつ継続されました。やがて、モンゴル帝国によって金が滅ぼされ、その後南宋もほとんど無傷のままでクビライの軍に平定されます。

宋は960年から1127年の北宋の時代、そして1127年から1279年の南宋の時代まで、約3世紀にわたって続きました。宋の時代に開花した文明と文化は、後世に唐宋革命といわれるほどの大きな変革をもたらしました。現代の中国の社会や文化の原型は、ほとんど宋の時代に形成されています。

宋の繁栄は、澶淵の盟に代表されるモンゴル高原の遊牧民と結んだ平和条約が守られ続けたことが、大きな原因です。戦争がないために交易が飛躍的に拡大して、宋は豊かになりました。

しかし澶淵システムは寇準が誹謗されたように、「お金で平和を贖う」、卑屈な方法だという見方も少なくありませんでした。ただただお金を貢いで平和を贖うのであれば、いかにも臆病なだけの、無能な政策に思われます。

しかし近年になって、澶淵システムの評価は変わりつつあります。それは現代でいえばODA(政府開発援助)に匹敵するのではないか、という見方が有力になってきたからです。

たとえば発展途上国に日本が経済援助を行うと、その国はダム建設や水道施設などの整備を始めようとする。多くの場合発注先は日本の企業です。発展途上国は国のインフラを豊かにし、日本も援助したお金が工費として戻ってくる。そのようなウィン・ウィンの関係を目指すのがODAです。

キタイは宋から得た絹や銀を元手とし、宋から生活物資や文明の利器を購入して、国を豊かにします。結果として宋も潤う。
軍事のキタイと経済の宋が、お互いに安定して住み分けたのです。仕掛け人の寇準は臆病どころではなく、冷静でしたたかな政治家だった、という評価が一般的になりつつあります。

ちなみに、「紹興の和議」を結んだ秦檜は後の中国では逆賊とされ、反対に目算もなく心意気だけで金との抗戦を主張して、秦檜に謀殺された岳飛は悲劇の英雄となりました。

南宋の都であった杭州を訪れると、救国の英雄となった岳飛を祀る岳飛廟があります。その廟の前に、鎖につながれた秦檜夫妻の像があり、岳飛廟にお参りした人々は帰途、その像につばを吐きかけて帰って行くのです。

その光景をわが目で見たことがありましたが、澶淵システムが再評価されつつある昨今、果たしてどうなっているのでしょうか。

※本稿は『知略を養う 戦争と外交の世界史』(かんき出版)より一部を抜粋編集したものです。

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