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マリア・テレジア ヨーロッパを驚愕させた「外交革命」と意外な結末

2018年11月01日 公開

出口治明(立命館アジア太平洋大学(APU)学長)

本格化するオーストリア継承戦争

マリア・テレジアと2人の女性による「外交革命」

さて、オーストリアのハプスブルク家ではスペイン継承戦争から20数年後、カール六世が後継者の男子がいないまま死去しました。

神聖ローマ皇帝でもあった彼は、生前のうちに娘のマリア・テレジアを後継者とすることを記した詔書を、主要諸国に認めさせていました。

カール六世の死後、ハプスブルク家はマリア・テレジアが相続し、彼女の夫君であるトスカーナ大公フランツ・シュテファンを神聖ローマ皇帝に推挙する形で、ヨーロッパ主要国に認めてもらおうとしました。神聖ローマ皇帝には女性が就けない習慣があったからです。

ところが、カール六世が生きているときはマリア・テレジアの相続を認めたはずの近隣諸国が、手のひらを返したように継承を認めないと言い出します。

「女にハプスブルク家を継ぐ権利はない。どうしても認めてほしいなら、少し領土を割譲せよ」

たかが女ひとり、威かせばなんとかなると近隣諸国は考えたのでしょう。一番えげつない手段を選んだのは、プロイセン王国のフリードリヒ二世でした。
彼は1740年にプロイセン王に即位したばかりです。彼はマリア・テレジアと近隣諸国がもめているのを横目に見つつ、軍隊を動かし、シレジア地方を占領してしまいました。

シレジア(現在のシュレージエン)は、ポーランド南西部の石炭・鉄鉱などを産する工業地帯です。シレジアはこの当時、オーストリア・ハプスブルク家の領土でした。

なおプロイセンは、ベルリンを首都とする1701年に王国になったばかりの新興国です。後にビスマルクの手によってドイツ帝国となり、第一次世界大戦の主役となります。

このフリードリヒ二世の勝手な侵略行為をみて、近隣のザクセンやバイエルンもオーストリアに侵攻します。
フランスとスペインのブルボン家は、反ハプスブルク勢力ですからプロイセン側につきました。ブルボン家に対立するグレートブリテンとネーデルランドは、ハプスブルク側につきました。
こうしてオーストリア継承戦争が本格化しました。

フリードリヒ二世は、マリア・テレジアを甘くみて、泣きついてくると思ったのかもしれません。しかし彼女は一歩も退かずに戦い続け、ついに戦線は膠着したままで幕を閉じ(1748)、アーヘンの和約が結ばれました。

フランツ・シュテファンの神聖ローマ皇帝就任は認められ、フランツ一世となりました。しかしシレジアは戻りませんでした。マリア・テレジアは、どさくさまぎれにシレジアを奪い取ったプロイセン王国のフリードリヒ二世を、決して許すまいと決心しました。

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フリードリヒ2世を倒すべく3人の女性が手を組んだ >

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