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マリア・テレジア ヨーロッパを驚愕させた「外交革命」と意外な結末

出口治明(立命館アジア太平洋大学学長)

2018年11月01日 公開 2022年12月08日 更新

建前よりも本音で動いた外交の典型例

七年戦争は、当初はマリア・テレジアの側が優勢でしたが、ロシアのエリザヴェータ女帝の急死により状況は一変します。

彼女には子どもがいなかったので、前から自分の姉の子どもであるピョートルを後継者に指名していました。彼はドイツのホルシュタイン大公でしたが、ロシア皇帝ピョートル3世として即位します。

ところがピョートル3世は、フリードリヒ2世を深く尊敬していました。自分が軍隊好きであったので、ヨーロッパのあちこちに侵略の軍を出すフリードリヒ2世が大好きだったのでしょう。ただそれだけの男です。人の上に立つ器量はありませんでした。
彼はロシア皇帝になった途端に、単独でフリードリヒ2世と和解すると、全軍をベルリンからロシアへ引き揚げてしまったのです。

七年戦争は、結局、マリア・テレジアの宿願を実現させることなく終局を迎えることになりました。1763年のフベルトゥスブルクの和約でアーヘンの和約が再確認されたのです。

マリア・テレジアが画策したこのフランスとハプスブルク家の同盟は、両国のプリンスとプリンセスが結婚するという華やいだニュースも含めて、ヨーロッパ中を驚愕させました。
この「外交革命」は、"外交とは建前よりも本音で動くものである"という典型的な事例だと思います。

犬猿の仲の両国が手を結んだという意味では、短期的な国益に適ったと言えると思いますが、ドイツの多くの諸侯は、プロイセン王国も含めて、好き嫌いはともかくとして、ローマ教会とプロテスタントの宗教紛争や三〇年戦争のとき、資金を出して背後で糸を引いていたのがフランスであったことを記憶しています。

ハプスブルク家のオーストリアが、同じドイツ領邦内のプロイセン王国を打倒する目的でフランスと同盟を結んだことに対して、多くのドイツの人々は考えたのではないか。

「ハプスブルク家は、ドイツのことを本当に考えているのかな」

そして長い目で見れば、外交革命がもたらした結果はドイツの盟主の座を、ハプスブルク家からプロイセン王国のオーエンツォレルン家へと変えていく大きな契機となりました。

マリア・テレジアの外交革命に至る決断について、あれは女の浅知恵だったと捉える説もあります。しかし、これは観念的な女性蔑視でしかなく、ハプスブルク家の体質というか能力の問題だと考えるべきだと思います。

ハプスブルク家は、はるか昔から結婚によって領土を拡げ続けてきた家系であり、人々からはやっかみ半分に「ハプスブルクよ、汝は結婚せよ」と言われてきた歴史がありますが、一人として有能な君主を生んだことがない不思議な家系でもあるのですから。

※『知略を養う 戦争と外交の世界史』(かんき出版)より一部を抜粋編集したものです。

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