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日本のものづくりを支える 「放電精密加工研究所」 の危機を解決したアメーバ経営

二村勝彦(株式会社放電精密加工研究所会長)

2019年08月07日 公開 2019年08月07日 更新

日本のものづくりを支える 「放電精密加工研究所」 の危機を解決したアメーバ経営

創業55年の長寿企業にして売上100億円、JASDAQ上場の株式会社放電精密加工研究所。

戦後たった1人の技術者がはじめた金属加工の最先端技術、「放電加工」の受託ビジネスが大きく花開きました。高度な技術は重工業、住宅設備、自動車のトップメーカーから認められ、重要サプライヤーとしての地位を確立。航空機エンジン部品や産業用ガスタービン部品など極めて高い精度を要求される分野で、日本のモノづくりを支えてきました。

現在、経営のバトンは引き継がれ、社員数も500名に拡大。この間、独創技術で新たな価値を創造するという理念のもとに日本のものづくりを支え、経営理念と管理会計が浸透していた同社で、なぜアメーバ経営とフィロソフィ教育を導入したのか、導入後に何が変わったのか。二村勝彦会長に伺いました。

 

「放電加工」という特殊技術を引っ提げての企業スタート

二村勝彦(株式会社放電精密加工研究所会長)

――まずは、御社のお仕事について伺えますか?

(二村)では最初に、当社のコア技術である放電加工についてご説明しましょう。この技術はロシアで発明された日本に移入されたもので、日本でも研究は続けられ1954年に国産の放電加工機が誕生しました。放電加工機は人工的に発生させた雷の電気エネルギーを利用して金属を溶かす加工方法であり、それによって、従来のやり方では実現できなかった、精密で複雑な金属加工を可能にしたのです。

当社の創業者・二村昭二は戦後、日本で最初の放電加工機メーカーで、国産放電加工機の初号機開発に携わりました。そして戦後の高度経済成長期、習得した放電加工の技術を持って独立、1961年(昭和36年)に、放電加工を行なう会社として当社はスタートしました。

当時の日本経済は急成長の波に乗って、さまざまな産業が勃興し、製造業では大量生産の時期に入ってきていました。そして「モノづくり」のベースには金型が必要なのですが、構造が複雑な製品がどんどん出てきたために、金型の精度も上げていくことが求められました。

そのような状況で、従来の手作業、「彫金」のような作業だけでは対応しきれなくなり、最新技術として放電加工が注目されます。そして、精密で複雑な金属加工を可能にする企業として、当社は多くの注文を受けました。当社は、放電加工機を「作る」のではなく、放電加工機を「使う」会社として伸びてきたのです。

――放電加工機を使って作ってきたものは、主に金型ですか?

(二村)そうですね。高度経済成長期からしばらくの間は、金型で会社を大きくしてきました。大量生産の一番の武器である金型を作るのに、放電加工という技術は非常に重宝されましたし、その技術もどんどん進化していき、精密で複雑な加工に磨きがかかってきました。そのおかげで、大手のメーカーから注文を頂けるようになったのです。

その中で当社は、「アルミ押出用金型」を一つの武器にしていました。高度経済成長期に入って、住宅がどんどんできます。その際、家屋の窓枠が木製からアルミサッシへと、変貌を遂げていったのです。そのアルミサッシを作るには精密な金型が必要で、放電加工の技術でその金型をどんどん作っていきました。

それから間もなくして、今度は乗用車が一気に普及していきます。それにつれて「排気ガスによる環境問題」がクローズアップされてきました。その問題を解決すべく自動車メーカー各社は、「排気ガスを浄化するための装置」を取り付けるようになります。

その装置を使って窒素酸化物などの有害物質を除去し、クリーンな状態で大気中に排気させるのです。その装置を作るための金型作りも、当社で多く請け負いました。これは、ファインセラミックスメーカーと一緒になって開発して作り上げたものです。

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