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信長の正統後継者・織田信忠の“奇妙”な幼名

和田裕弘(わだやすひろ:戦国史研究家)

2019年10月04日 公開 2024年12月16日 更新

信長の正統後継者・織田信忠の“奇妙”な幼名

織田信忠は、父信長から才覚を認められ、十九歳の若さで家督を継承した。大軍の指揮を任され、紀伊雑賀攻めに続き、謀叛した松永久秀の討伐に成功。

さらには先鋒の大将として信濃・甲斐に攻め入り、宿敵武田氏を滅ぼして信長から称賛される。だが凱旋からほどなく、京都で本能寺の変に遭遇。明智光秀の軍勢に包囲され、衆寡敵せず自害した。

もし信忠が生きながらえていたなら、歴史は変わっていたかもしれない…と歴史を語る上での禁じ手である「if」を掻き立てられてしまう。

戦国史研究家で、織豊期研究会会員でもある和田裕弘氏が発表した『織田信忠ーー天下人の嫡男』では、将来を嘱望されながらも、悲運に斃れた26年の生涯を描いている。ここではその一節を紹介したい。

※本稿は和田裕弘著『織田信忠ー天下人の嫡男』(中公新書)より一部抜粋・編集したものです。

 

信長に2年遅れた16歳の初陣

前述のように元服の年次ははっきりしないが、初陣については、『信長公記』の元亀三年(1572)七月に記載がある。元亀三年七月十九日、北近江の浅井氏攻めで初陣を飾った。「信長公の嫡男奇妙公御具足初に、信長御同心なされ、御父子江北表に至って御馬を出され」とある。信長が初陣した十四歳より二年遅く、信忠はすでに十六歳になっていた。

このころの信長をめぐる四囲の情勢について少し見てみよう。信忠の初陣を飾るに相応しい時期だったのかどうか。少し遡るが、戦場となった北近江をめぐる情勢を確認しよう。

永禄十一年(1568)九月、信長は将軍候補の足利義昭を奉じて上洛し、義昭を将軍職に就けることに成功する。永禄十三年(元亀元年)四月、越前の朝倉攻めをしようとした矢先、姻戚関係を結んでいた北近江の浅井氏が朝倉氏と結んで信長を裏切り、信長は窮地に陥ったが、無事、帰陣することができた。

その後、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を打ち破ったものの、永禄十一年の上洛時に追い落としていた三好氏の反攻に加え、大坂本願寺が挙兵し、浅井・朝倉連合軍も反撃を開始し、いわゆる「元亀の争乱」に突入することになる。信長と同じ十四歳で初陣させようとすればこの年になるが、とてもそうした環境ではなかったことがわかる。

信長は、三好・本願寺攻めを中止して帰洛し、浅井・朝倉軍を迎撃しようとしたが、両軍は比叡山に籠ったため膠着状態に陥った。関白二条晴良、将軍義昭を担ぎ出して浅井・朝倉と和睦し、岐阜に帰国することに成功する。

しかし、翌年早々から和睦を破棄し、浅井攻めに取り掛かり、九月には比叡山を焼き討ちした。武田信玄と敵対する以前であり、浅井氏も徐々に追い詰め、予断は許さないものの、信忠の初陣時期としては相応しい環境が整いつつあったといえよう。

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柴田勝家が甲を、下方貞清が冑を着せる

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