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信長の正統後継者・織田信忠の“奇妙”な幼名

和田裕弘(わだやすひろ:戦国史研究家)

2019年10月04日 公開 2022年06月15日 更新

 

幼名時に斯波氏から秘蔵品を贈られた信忠

前述のように信忠は元服前の幼名「奇妙」で史料に登場する。

近江の長命寺についてのものである。長命寺は聖徳太子の創建ともいい、のちに築城した安土城からもほど近い。十一月二十六日付の長命寺惣中宛佐久間与六郎家勝奉書中に「当寺のこと、御奇妙様より諸役御免なさるべきの由、仰せ出だされ候」とあり、信忠の命令によって長命寺の諸役が免除された。佐久間家勝は尾張佐久間氏である。

これに関係すると思われるのが、十二月一日付の柴田勝家、坂井政直の連署状で、「当寺の儀、御奇妙様御意として、諸事非分これあるべからざるの旨候」とあり、信忠の指示で長命寺の諸事非分が禁止されている。長命寺に対する優遇策である。

また、十一月二十九日付で丹羽長秀宛の奇妙の書状写しには「長命寺の儀、岡崎より申し越し候。この方へも前より承り候間、坊中ともに相違なきように肝煎入、柴田方へも申すべく候」とあり、前記文書に関係するものである。

文中の「岡崎」について、徳川家康嫡男の信康に嫁した妹「五徳」と解する見方もあるが、徳川家康のことであろう。それを裏付けるのが十一月十七日付の柴田勝家宛酒井忠次(家康家臣)書状案である。「長命寺寺家の儀、別して家康馳走申され候」とある。

家康と長命寺の関係はわからないが、家康の命を受けた忠次が、信忠や勝家に長命寺のことを依頼し、佐久間家勝、柴田勝家、坂井政直がその旨を長命寺に伝えたのだろう。

次に年次についてだが、坂井政直は元亀元年(1570)十一月二十六日に近江の堅田で討死しており、これ以前である。元亀元年の可能性も完全には否定できないが、この時には浅井・朝倉と対峙しており、やはり永禄十二年(1569)以前であろう。

永禄十一年九月の信長の上洛以降であることも明らかだが、この年とするには少し早過ぎる。元服前の永禄十二年の事績と推測できよう。

また、元亀二年六月十一日付で美濃崇福寺に対し、信長の判形(判物)に任せて(信長が安堵した特権を承認)寺ならびに門前の課役を免除している(『崇福寺文書』)。署名は元服前の奇妙である。この時点で、なぜ信忠が崇福寺にこうした文書を出したのかはわかっていない。

もう一点、珍しい史料がある。信長に追放された斯波義銀(尾張守護斯波義統の嫡子、のち津川義近)が「喜妙」(奇妙)に対し、秘蔵品を贈り、自らが帰参できるように父信長への執り成しを頼んでいる書状がある(『津川(斯波)義近自筆書状』『下村誠氏所蔵文書』)。

木下聡氏も『管領斯波氏』で紹介されており、喜妙を信忠に比定している。信忠とすれば、自分が生まれた時期に尾張を追放された旧守護の嫡子からの初めての所信(「いまだ申し承らず候」)となり、戸惑ったことだろう。

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