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元外交官に聞いた「海外の人は日本に興味があるのか?」

山中俊之(元外交官)、鬼塚忠(作家エージェンシー代表)

2020年03月27日 公開 2022年07月04日 更新

 

明治維新の原動力となった基礎教育

(鬼塚)文字の読み書きが出来るようになると農村からもいい人材が出てきやすくなるということですね。

(山中)そうです。徳川家康が江戸幕府を開府し、余計な争いを避けるために、士農工商という身分制度を作り、身分を固定しました。しかし、大坂夏の陣が終わり、これ以上、日本で戦は起こらないとわかると、身分は固定されなくなった。

女性は結婚で身分は変わりましたし、男性でも二宮尊徳のように農民から武士へ取り立てられた例もあります。

この尊徳は、洪水のために家を流され、両親が亡くなった。一家を支えなくてはならない立場になった尊徳は学んだ知識と才覚で家業の農家を劇的に立て直しました。この成功を聞きつけた小田原藩の家老が、尊徳に、火の車になった自分の家の改革を手伝ってくれるよう頼むのです。

これが成功すると、今度は、その成功を聞きつけた小田原藩主が、藩の飛び地であった下野国桜町の再興を託し、尊徳は成功させました。さらに評判は評判を呼び、話は幕府にまで伝わり、尊徳は幕政の改革にまで関与しました。

(鬼塚)出自に関係なく、優秀な人には登用の機会が与えられたということですね。しかし、学問を重視し、庶民から登用するという点においては、他のアジア諸国の中国や韓国も同じですよね。科挙というシステムがあり、身分に関係なく、庶民から優秀なものが選ばれますよね。

(山中)確かに中国と韓国には科挙というシステムがありました。なので、新しい家系から官僚になれた。一見、柔軟な社会のように見えますが、だからといって科挙は素晴らしいと手放しで賛辞できません。なぜでしょう?

科挙の試験科目は、「儒教」を筆頭にほぼ固定化されていました。しかし、時代は変わっていきます。時代の変化に合わせて学ぶことも変えなければなりません。新しい学問も生まれてきます。

日本では科挙のような試験が事実上なかったことで、変化する時代に合わせて、新しい分野を学ぶことができたのです。学問がより自由になり、蘭学など、自然科学や欧州の学問など新しいものをどんどん受け入れる素地が出来たのではないかと思います。

 

「出版」と「落語」が庶民の知性を牽引した?

(鬼塚)なるほど。どれだけ勉強をするかということよりも、何を勉強するかということの方が重要だということですね。昔の人々は、どれほど勉強熱心だったのでしょうか?

(山中)鎌倉時代、勉強は主として武士や貴族など支配階層のものでした。その後、室町時代になると先に話した城下町と農村とのやり取りがすすむなかで、農民が読み書きを学ぶ機会が増えてきました。

江戸時代になると寺小屋が一般化されます。ここで、読み・書き・算盤に加え、地理・算術など多様な科目が加わりました。

欧州と比較すると、欧州では自宅に優秀な家庭教師を招いて学ぶ習慣がありました。日本は違います。家の外の寺で皆と一緒に学ぶという習慣があったから、学問が普及するきっかけになったのだと思います。

そのシステムが日本全国に広がります。さらに、各藩で藩校も立ち上がり、そこでは蘭学も教えました。

蘭学には天文学など自然科学系の学問が含まれています。学ぶ科目が強制されず、学ぶ自由があったことが江戸時代の自然科学における偉人を生み出す要因にもなったのでしょう。

(鬼塚)日本では学びが柔軟で、自然科学系が多かったというのがポイントですね。

(山中)そうです。寺小屋だけでなく、さらに、出版と落語が日本人の能力を開花させる糧になったと私は思います。江戸時代、江戸には600以上の貸本屋があり、江戸だけでなく、京、大坂をはじめ各都市に多数の貸本屋がありました。江戸時代の人々は本を貪り読んでいたと思います。これが日本人の知性を高めた。

もうひとつは「落語」だと思います。江戸時代の日本人の想像力を養ったと思っています。落語はひとり話芸です。これは世界で稀です。ひとりが何人も同時に演じるには瞬時に気持ちを入れ替えて、違った人間を演じなければなりません。

聞く側も同じです。ひとりの人間から登場人物のすべてを想像しなくてはなりません。これで日本人の想像力が養われたと言っても言い過ぎではありません。

(鬼塚)そうして江戸時代の日本人が基礎的な知性を磨いた結果、出自に限らず良い人材が育った。そして、それが海外の人も驚く明治維新を成し遂げる原動力になったわけですね。

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