40代を苦しめる「自分は永遠に成長できる」という“幻想”
2020年09月10日 公開 2024年12月16日 更新
人生の中盤に差しかかると、「このままでいいのか」という疑問とともに、これからの人生に対して不安や葛藤を抱え、精神的に不安定な状態に陥ってしまう人が少なくありません。これを、「ミドルエイジクライシス(中年危機)」といい、大体40代ぐらいからこの症状を感じる人が増えます。
この原因には、「自分は成長し続けられる」という”幻想”がある――『他人の期待に応えない』(SBクリエイティブ)を上梓した精神科医の清水研氏は言います。4,000人以上のがん患者と対話をしてきた同氏に、ミドルエイジクライシスの原因と対処法を聞いた。
※本稿は清水研著『他人の期待に応えない』(SBクリエイティブ刊)より一部抜粋・編集したものです
「自分は成長し続けられる」という”幻想”
ミドルエイジになると、「自分はこれからも成長することができる」という”幻想”がいよいよ崩れ去ることとなります。若い頃はいくらでも無理が利きますし、頑張ることができます。
私もそうでしたが、10代、20代は体のメンテナンスなど気にしなくても済みます。体は自分の言う通りになってくれて、思う通りに動いてくれる。少しぐらい酷使したとしても大丈夫。徹夜や休日出勤などしたとしても、次の日も元気に働けます。
私は20代の研修医の頃、救急病院の夜間当直の見習いをしていて、指導医の横について勉強していました。私にとって当直は新しい経験をして医師として成長できるチャンスであり、充実感があったため、病院に泊まることが全く苦にならなかったのです。
当時の自分は体がだんだん壊れていくことを知りませんでしたので、年配の指導医が当直を心底苦痛だと感じていて、翌日だるそうにしているのが不思議で、指導医のことを「だらしないなあ」ぐらいに思っておりました。
今にして考えると本当に失礼だったと思いますし、その頃の自分に「おい、お前は本当に分かっていないなあ。いずれ思い知ることだが、お前も40代になったら、徹夜の後は全く使い物にならなくなっているぞ!」と言ってやりたいです。
そして、30代に入ると、徐々に無理が利かなくなります。ただし、まだ切迫感があるほどではありません。少しぐらいだるくても、最近「運動不足だからしょうがないな」と自分に言い聞かせます。
この段階ではまだまだいける気がするからなのか、「体をちょっと鍛えれば、また元気になれる」とか、「ダイエットをして体を締めればすぐに生き生きできるだろう」などと、あまり深刻に考えないことの方が多いようです。
「興味を持てないこと」が頑張れなくなる
しかし、40代になると、多くの人は本格的に無理や頑張りが利かなくなります。体のメンテナンスをしていなければ、人によってはひどい肩こりや腰痛に悩まされます。走ればすぐに息切れをするし、代謝が落ちているので、食生活に気を付けなければどんどん太ります。
若い頃は睡眠のことなど気にしたこともなかったのに、40歳を過ぎると朝すっきり目覚められず、1日中何となく集中力が落ちてしまうことが苦痛で、「睡眠の本」を読むようになります。ここまで来ると、体に対するイメージは様変わりしています。
20代の頃の「少しぐらい酷使しても思い通りに動いてくれる」という体に対する信頼はすっかり消えうせ、「大切に扱ってやらないとすぐ機嫌をそこねてしまう厄介な存在」になっています。
このことを悟るときが、自分の心の支えになっていた「自分はいつまでも頑張れるし、成長し続けられる」という”幻想”が失われる瞬間です。特に、自分が興味を持てないことにエネルギーを出すのが難しくなります。
そうすると、20代の頃は時に楽しく感じることもあった、努力して新しいことを身に付けたり、頑張り続けて成長することが、すごくつらくなってしまうのです。こうなると、いわゆる「たゆまぬ努力」は一切できなくなります。
私の知人で実際にミドルエイジクライシスを経験した人は、これを「コップの水」に例えていました。40代に差し掛かったくらいから、自分でも気づかないうちにコップの水が徐々にたまっていく。
ただ、これは後から振り返ると分かることで、その当時は徐々にたまっていることに自分でも気がつかなかったそうです。コップが満杯になるまでは「疲れているだけ」くらいの認識しかないのですが、いざコップの水があふれたときにはもう遅い。もはや、その段階から立ち直るのは容易ではありません。実際その方は、会社を休職することになりました。
”幻想”にしがみつき続けることの危うさ
コップの水がたまってきたとき、やってはならないのは「自分はいつまでも頑張れるし、成長し続けられる」という”幻想”にしがみつき続けることです。変な言い方に聞こえるかもしれませんが、40代までくるとそもそもあまり頑張らない方がよいのかもしれません。
それまで自分を鼓舞し、無理を押してやってきた人ほど、大切にしていたこの”幻想”を手放すことが簡単ではありません。頑張ることができないのは自分の努力が足りないからだと思ってしまい、自分自身が怠け者に思え始め、場合によっては自己嫌悪に陥ってしまうこともあります。
強い意志力を持っている人であれば、さらに体にムチを打つことで、会社での昇進を果たすことができるかもしれません。しかしこの場合、多少、承認欲求は満たされることはあっても、無理をする苦しさの方がはるかに勝ってしまうので、頑張ることの楽しさが感じられなくなります。
そして、いずれは「これから先、頑張り続けたからといって、一体何の意味があるのだ」という疑問が頭をもたげるようになります。体は何でも言うことを聞いてくれるという若い頃のイメージを忘れられない弊害は他にもあります。
例えば、40歳を過ぎると徐々に睡眠の質も悪くなります。生活習慣を改めることによって改善することもありますが、改善しない部分については「そういうものだ」という良い意味での諦めも必要です。
しかし、もしここで「すっきり眠ってすっきり朝目覚める」という若い頃の感覚を追い求めすぎると、睡眠薬を使うようになり、その量が徐々に増えていき、しまいには睡眠薬依存症になってしまいます。
睡眠薬ならまだ傷は浅いですが、元気がみなぎっていた若い頃の爽快な感覚を取り戻そうと覚せい剤などの違法薬物に一度手を出してしまったら最後、その後の人生は薬による精神の支配とは無縁でいられない運命が待ち受けています。
「死」を意識し、「今」を生きる
なので、”幻想”を手放すことはつらいことなのですが、ここでは現実に目を向け、それを前提とした「幸せ」を探す旅に出る覚悟が必要です。
その「現実」とは何か。言葉にするととっても怖いことかもしれませんが、人生後半は徐々に、しかし確実に自分は「老」いていき、最後は「死」という終着点が待ち構えているという現実です。「死」に至るまでに、大きな「病」が待ち構えているかもしれません。
聞きたくないことを歯に衣着せずに言うなあと思われるかもしれません。しかし実はこれはとても大切なことで、仏教の有名な教えである「生老病死」という考えと同じことを申し上げています。
生老病死は「四苦」とも言いますが、これらは人の常で、人間が操れないものであることを教えています。そして、仏教の中では必ずしもネガティブな文脈ではなく、「四苦」は人生の真実に気づかせてくれるきっかけになるという意味あいがあるのです。
「自分は成長し続けられる」という”幻想”を手放した後に得られる、現実を前提とした「幸せ」とは何か?この”幻想”を手放すことで、人は未来のために今を犠牲にして生きるのではなく、今を生きることを一生懸命考えるようになります。そうすると、人生前半には気づかなかった景色が見えてくるのです。