江戸は「本所竪川」ぶらぶら歴史散歩
2020年10月28日 公開 2024年12月16日 更新
竪川沿いの遊歩道をゆく畠山健二氏。江戸城(西)を上として、下(東)に直進することから「竪(縦)川」と名付けられた。現在は上を首都高速7号線が走る
東京下町をこよなく愛し、その粋と人情を時代小説の世界で表現した「本所おけら長屋」シリーズの著者が、竪川の周辺に歴史を求めて歩いてみると……(取材・構成:武藤郁子)。
畠山健二:昭和32年(1957)、東京都目黒区生まれ、墨田区本所育ち。笑芸作家として漫才や落語の台本執筆や演出を手がけたのち、小説家に。演芸、下町、食に関するコラムも精力的に執筆。2020年9月には 『東京スッタモンダ 旅行読売臨時増刊』の編集長を務めた。最新刊に『本所おけら長屋(十五)』(PHP文芸文庫)がある。
「下町」とはどこまでのことを指すのか?
隅田川に架かる両国橋
東京で下町というと、浅草や本所深川のあたりを言う。しかし、ふと気になって辞書を調べてみると、昔は日本橋から数町四方、東は両国川、西は外濠、北は筋違橋・神田川、南は新橋の内を下町と呼んだと書いてあった。どうも日本橋や神田、浅草などのいわゆる"お江戸"をひっくるめて「下町」と呼んでいたらしい。
ここで引っかかるのは、「東は両国川」というくだりだ。両国川とは、隅田川の両国付近の呼び名だったそうだから、この段で言ったら、下町は両国橋のあっち(西詰)までということになる。こっち(東詰)の本所育ちで本所住まいの自分からしたら、到底容認しがたい。
でも、わかっちゃいるんですよ。「両国」という名前が付いているのも、隅田川が武蔵国と下総国の国境だったからで、本所は下総だったってことくらいは……。
二つの国にかかるから「両国橋」と名付けられたというが、この両国橋で繫がっているおかげで、本所も"江戸"になったのである。
明暦の大火と江戸の大改造
回向院。明暦の大火後、幕府は約10万8000人の遺体を埋葬し塚を築いた。その供養のために建立された寺
両国橋が架けられたのには、大きなきっかけがあった。江戸の大半が焼け、江戸城の天守閣までも焼失した"明暦の大火"(明暦三年〈1657〉)だ。
この火災後、幕府は江戸を大改造する。大名や旗本の屋敷、寺院の多くを移転させて火除地を新設した。両国橋の西詰、両国広小路も火除地の一つ。本所や深川も、川や堀割が掘削され、その上げ土で市街地として整備されたのだ。
本所には竪川、大横川、横十間川などの河川があるが、これらはすべて、この時に掘られた運河だ。
驚くほど直線の川が、直角に交わっている。この人工的な形から、幕府の都市改造が、いかに大胆で計画的だったかがよくわかるだろう。
現在、一部は埋め立てられて公園になったりもしているが、竪川は昔の流れをよく残している。江戸の頃には、旧中川と隅田川を一直線に結ぶ水路でもあった。