「靴ヒモ1本」で陰口を言うよりも...
僕はアメリカ滞在中、ノーという態度をかなりハッキリさせた。“そんなくだらないこと”などと小さいことを見すごさないようにした。
たとえばスーパーマーケットで買い物をする。一回にいろいろのものを買うから、ひとつひとつのものについて注意がいきとどかない時がある。
ある時、ゼイアーというところで運動靴を買った。僕は自分の足に大きいか、小さいかというサイズにばかり気をとられて買ってきた。他のものと一緒に大きな袋にいれて家に帰ってきた。
ところが、二本あると思った運動靴の靴ヒモが一本しかない。翌日わざわざそのことを説明に行くのは“くだらない”ことである。
しかしこうした小さなことを“くだらない”といってしまうのは、実は内心もう一度行くのが億劫だからということである。それに自分の説明をお店の人が信用してくれるともかぎらない。なんとなく行くのがいやなのである。
そこでわれわれはよく小さいことを“くだらない”と合理化してしまう。しかし本音は“くだらない”より“いや”なのではなかろうか。
僕はその時もゼイアーに説明に行った。はじめのカウンターのところではノーといわれた。そこで相談係のところに行くと、売場から新しい運動靴を持ってきてくれという。
そこで新しい運動靴をその相談係の人のところに持っていくと、その靴ヒモのうちの一本をとって僕に渡してくれた。
それについやす時間その他を考えると、決して合理的なことではないが、お店がそのような時どのような反応をするか知りたくて、靴ヒモ一本をわざわざもらいに行った。
そしてもらうべき靴ヒモ一本をもらってみると、靴ヒモ一本には替えられない心のさわやかさがあったことは確かである。少なくとも靴ヒモを替えてもらわずに、“あのゼイアーというお店には不良品がある”といって次回から別のお店に買い物に行くという態度よりは望ましいであろう。
不良品を得るということは、お金の問題をこえて気分の悪いものである。そんな時、どうもめんどう臭くて、“わずかなお金に、そんなバカなこと”と自分を主張しないことを合理化してしまう。
“そんなバカなこと”という発言が本音でなくて合理化であることは、その人があとで陰口をいうことでわかる。
ノーといわずに陰口をいうくらいなら、どんな小さなことにも大きな精力を使ってノーというべきである。 自分に適したことをやるのが自立への道だ。
「自立していない」とはどういうことか
まず第一に、自分で自分を支えられない、つまり自分が自分を信頼していないということである。したがって外からの何らかの影響でたちまち感情が混乱してしまう。自分の感情のあり方が極端に外部に依存しているのである。
キッパリと決まった自己が形成されていない人間は、他人との関係をつくれない。つまり自己と他者との境界があいまいで、他者の動きがそのまま自己の混乱につながる。
池の水のように、一方の端で波がたつと他方に伝わっていく。他者の言動によって、ストレートに自己の感情のバランスがくずれてしまう。他者のほんのささいな言葉によって、自己の感情は混乱する。
“あんたこんなこともできないの?”という何気ない言葉がふと他人からもれただけで、今までの明るい感情はふっとんでしまって重苦しい感情が全身をひたす。
また、“ヘェー、あんたって案外器用なのね”という言葉で、急に浮き浮きしてきて気持ちが落ち着かなくなったりする。
このように、他者の動きによって自分の感情のバランスはすぐに崩れる。他者の一挙一動が自分の感情を混乱させる。
自立している人は他人の言動に無頓着でいられる。無頓着でいられるためには、他人と自分との間に一定の距離がなければならない。一定の距離があるということは自分の立場がなければならない。
自分の存在の実感が確実な者は、他人の行動をそのままにしておくことができる。何かケチをつけないといられない、などということがない。
つまり自立していない人は、自分に適したこと、自分にふさわしいことをやろうとするのではなく、他人を基準にしてものごとを考える。したがって何をやっていてもそこに集中しリラックスすることが難しい。何をやっても確信がないのである。
確信というのは、自分は自分の能力を向上させるために何かすることができるという気持ちである。そして自分が失敗してもいいわけをすることがない。しかし他人の言動で混乱する人は、他人の成功に傷つき、自分の失敗にいいわけをする。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。