独立するも億単位の借金…ピンク・レディー解散後に「それでも追いかけた夢」
2021年06月10日 公開 2023年09月15日 更新
1992年当時の未唯mieさん
ピンク・レディーとして『ペッパー警部』でデビューし、一世を風靡した未唯mieさん。その後、現在に至るまで芸能界で活躍を続けているが、その道のりは平坦なものではなかった。人生を変えたピンチとは?(取材・構成:林加愛)
※本稿は、『THE21』2021年6月号より一部抜粋・編集したものです。
ピンク・レディー解散後「親の反対で夢を断念」
1981年、ピンク・レディー解散。当時23歳の私は、これからどんな活動をしていこうかと、様々な可能性を思いめぐらしていました。
ソロ歌手になるか、女優になるか。ダンスを極めるという選択肢もありました。とりわけ魅力を感じたのは、「ぜひ米国で一緒に仕事を」という現地のプロデューサーからのお誘いでした。
喜んで応じたかったのですが、親の反対で断念。厳しい両親のもとで育った私は20歳を過ぎても、親の言うことに逆らえない娘だったのです。
親の反対で諦めたことは、もう一つあります。ある事務所から「アイドルから脱皮して、アーティストとしての表現を追求しよう」とお誘いを受け、心動いていた矢先に、有無を言わせず「移籍なんてダメ」。
これまで通り、ピンク・レディーをプロデュースしてくださった方のお世話になりなさい、と言われました。こうして私は、あれこれ思い描いていた展望をいったん折りたたむことになりました。
以後数年にわたり、その方のもとで活動し、解散前と変わらぬ多忙さでしたが、不完全燃焼のような気持ちは拭えませんでした。仕事内容はピンク・レディーの延長線上。「違うことがしたい、環境を変えたい」という思いが日に日に募りました。
そしてついに、袂を分かつことを決意。直接のきっかけは、同世代のミュージシャン仲間から、「やりたい音楽を一緒に追求しよう」と言われたことです。1987年、私は29歳で独立し、その仲間たちと新会社を設立しました。
「人任せ」の末に訪れた最大のピンチ
これからはミュージシャン集団として、コツコツと音楽を極めていこう。そんな希望に満ちた出発でした。
ところが、その理想と現実はだんだん乖離していきました。それまで地道な活動をしてきた仲間たちにとって、私が仕事で得てくるお金は桁違いのものだったのでしょう。使い方がわからず、派手に使ってしまっていました。
私も、そのことに危機感を持てませんでした。私にはお金の感覚というものがあまりなく、彼らに経営を任せ切りにしていたからです。子供の頃は、必要なときに必要なだけ品物かお金をもらえるシステムだったので、お小遣いをもらって自分でやりくりをする経験さえありませんでした。
帳簿の説明をされても気のない返事か、ただうなずくのみ。仲間にしてみれば、説明をする気も失せたでしょう。気がついたときには、億単位の借金ができていました。弁護士に相談すると、自己破産を勧められました。会社を畳んで大きな事務所に入り直して再出発すればいい、と。
でも、私には抵抗感がありました。これまで親に頼り、仲間に頼ってきた私は、また何かに頼って生きていくのか。そんな生き方でいいのか――。心の隅にずっとあった「人任せの生き方」への疑問が大きく膨らんでいました。
私は、借金だらけの会社を自分の手で経営することにしました。33歳で初めて「自分の足で人生を歩もう」と決心したのです。